いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

電子書籍を読むということ

つい先日の記事に完全に電子書籍に移行したい、すべき、というようなことを書いたことを思い出したものの、結局僕は電子書籍端末も電子書籍それ自体もあんまり買わずに普通に紙の本を読んでいたことをまず謝罪します。まるで僕が適当なことを実際に思ってもいないのに書いているなんて、そんな風に捉えられることだけは拒否したいがための謝罪を乗り越えて、僕はここに立っています。しっかりと立っている僕は、あることに気づいたのです。

以前、僕は電子書籍を買い、スマートフォンでそれを読む行為をしたことがあります。しかし、その時の僕は眼前に広がる文字の一つ一つにまったく集中できず、文章は飛ばすわ、文字を読み違えるわ、1ページ読んでアプリを閉じるわ、散々な結果でした。(まあ、文章を飛ばさず、文字を読み違えず、一度もページを閉じることなく本を読み終えたことなど一度もないわけですけど)優秀な僕は、敗因をデバイスにあると考え、つまり、スマートフォンでは、本を読む以外にも色々なことが出来てしまう、そもそもスマートフォンのディスプレイで文字を追うことに慣れていないことにあると考え、電子書籍バイスを買えば、紙の本に近いディスプレイで、本を読むことだけに集中できると考え、Kindleが欲しいとのたまっていたわけですが、ふとその結論に疑問を持つ瞬間があり、それは昨日Kindleでマンガを買って読んでいるときでした。

マンガはなんの問題もなく、夢中になって読める。度々画面の端を占拠するメールの通知を無視して、スマートフォンの小さな、それでいて大きな光を発するディスプレイで。

僕は何かを間違えていると感じました。

そして、そのことについに気がついたのです。

それは、情報量と運動量の問題なのです。

これまで、僕は電子書籍で本を読もうとするとき、文字の体裁はできるだけ紙の本に近づけるようにすべきと考え、小さな文字を、隙間なく詰め込むように設定していました。つまり、1ページに情報量をなるべく多く、そして、ページをめくる作業に費やす運動量は最小になるように。

しかし、マンガの場合はどうかというと、まあ、これはマンガによって差はありますが、基本的には、マンガの1ページに入っている情報は絵と文字で、絵の情報の性質は文字の性質と違っているため、文字を追うのと並行に僕たちは絵を見るため、文字の情報量で考えた時その情報量は少なく、そして、そのぶんページをめくる作業に費やす運動量は多くなる。

それだったのです。

思い返してみれば、僕は落ち着きのないほうで、それはスマートフォンという小さな画面のなかでもそうで、例えばツイッターを開いているときは、意味もなくタイムラインを読み込む動作をしたり、ユーチューブを観ているときは、意味もなく画面をタップしてシークバーを表示させたり……。

つまり、画面に細かく表示された文字を前にして、僕は、我慢ができなかった。スマートフォンで、じっと文字を読むことに、あまりにも僕は慣れていなかった。それはそもそも不可能だった。端末を手にしているのに、指をじっとさせて、文字を追う、なんて、無理だった。

それならば、解決方法は簡単で、1ページの情報量をなるべく少なくして、そのぶん、ページをめくる運動量を多くする。何か、他のことに気が移ってしまう隙を与えないほど親指を動かすようにすればいい。電子書籍を紙の本に近づけるのではなく、紙の本を電子端末に最適化させていけばよかったのです。

ただ、読書には流れのようなものがあって、個人差はありますが、画面に最小限これだけの文字がないと読書の流れが阻害されてしまう、みたいなのがあって、それでなくても、小説や詩などは文字の並び自体に芸術性を持たせていたりするので、あまり極端に文字を大きくしてしまうのも考えものですが、まあ、それは実際に触っていくうちに自分で丁度いいラインを見出していけばいいだけのことです。

ついに、僕は完全な答えにたどり着いてしまった。

ただ、問題があるとすれば、このことに気づいた今日午後六時、僕のKindleライブラリには僕が読むべき文章がなかったということでしょうか。この先、僕が生きて、すると僕の説が簡単にひっくり返ってしまう可能性も充分にある。しかし、今の時点で僕の発見は完全に世界を揺れ動かす大きなものであると自負しているので、まあ大丈夫でしょう。もし、この僕の発見がすでにどこか別の場所で提唱されていたとしても、それは僕のものです。前から後ろに流れていくだけが時間じゃないことを僕が証明する。

 

しかし、もう実際、読みたい本など、この世界のどこにもなく、何か本を読んでも頭のなかはからっぽで、感情はまったく動かず、何も変わらないこの現状で、メディアが別のものになったところで何かがどうなるわけでもないのは確かだった。純粋に何かを楽しめる人を僕は羨ましいと思うし、熱心に何かに真剣になれる人に僕は嫉妬する。何をやっても無駄になる気しかしないし、実際無駄なのに、そのことに気づかず頑張れる狂人や、気づいていて、それでも尚、頑張れる狂人たちに囲まれてる。狂人たちのなかで、もうすっかり何もやる気などないのに、僕は落ち着きがないから、仕方なく親指をスライドさせて、タップして、それで、何がどうなるわけでもなく今日は日が沈んで明日が来る。なんとなく疲れて眠いだけの身体が朝日に包まれる。流れる情報の波を漂う。

 おわり。

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)