いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

やる気!元気!寝起き!

新プリパラ面白いですね。夢川ゆいちゃんが可愛いのでプリパラ遊ぶときはもっぱら夢川ゆいちゃんを使って遊んでます。新ブランドのコーデもどれもひたすら可愛いです。新ブランドのコーデに身を包んだ夢川ゆいちゃんを使ってプリパラをしていると、僕と夢川ゆいちゃんの間にどれだけの違いがあるのだろうと考え、するとそこにはなんの違いもありはしないのだと気付かされ、僕は夢川ゆいちゃんになりました。ゆめかわ!そうやって、僕たちはいつだって物語を自分のエゴで歪める。物語が語り手のエゴによって歪められるその一瞬が、僕たちの青春だ。物語を物語る以上、語り手のエゴから逃れる手段はなく、上手い物語とは結局そのエゴをいかに隠すかでしかない。では、どこまで物語を歪めても物語は物語であり続けるのか? 舞城王太郎が『暗闇の中で子供』で行ったのは、それだったのだと思う。『暗闇の中で子供』では、物語の破綻がいよいよどうしようもないところまで到達してしまう。章が変わると人の死因が変わってるし、いきなりリアリティのかけらもない巨人が出てくる。物語のラストは最早なにがなんだかって感じだ。しかし、驚くことにここまで破綻した物語であるのに、『暗闇の中で子供』は物語としての形を保ち続ける。それは愛と暴力とどうしようもない人間たちを描く小説であり続ける。これはどういうことか? 小説は、物語は自由だから、と言ってしまうのは簡単だ。しかし、本当に自由に書かれた物語にどこまでの説得力があるというのか。本当に自由に書かれた物語というのは、例えば幼稚園児が画用紙に描くラクガキのようなもので、微笑ましくあっても、決してそれが僕たちの脳髄を揺さぶり改革を起こすようなことはない。

小説は、物語は不自由なものなのだ。

では、なぜ、不自由な世界で、『暗闇の中で子供』は破綻し、それでもなお、不自由な物語であり続けるのか。たぶん、それは信じる心、つまり祈りからくる語り手の力強さなのだ。一体、誰に、悲しい子供には、嘘でもいいから幸せなハッピーエンドが用意されているべきなのだ、なんていう、純粋な祈りを否定できようか。

物語の強度とは、祈りの深さなのだ。祈りからくる力強い語りによって、黒いものは白くなる。

だから、僕は夢川ゆいとして今日も近くのショッピングモールに行く。ゆめかわ!タッキーの炊くご飯は今日も美味しい〜っ!ゆめ〜!夢川ゆいってどういうキャラでしたっけ。忘れたわ。


アイドルタイム プリパラ デビューセット

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