いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

村上春樹について思うこと

最近暇なので村上春樹の小説を読み返してます。よく最高傑作と称されることもある『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』です。村上春樹の小説のいいところは家でも集中して読めるところと、読んでると部屋の掃除をしたくなるところ。あと、僕にもう少し自炊の心得があれば、手の込んだ料理を作りたくなるのかもしれません。

昔、テレビで村上春樹の小説が好きな外国人が、村上春樹の小説を、日本の妖怪のよう、と称していました(うろ覚えだけど)。僕もまったく同じ意見です。村上春樹のすごいところは、スケールの大きな想像力を僕たちの生活のすぐ隣に持ってくるところだと思う。例えば、都市の地下に潜むやみくろや博士の存在や、いなくなった猫を探して家のまわりをうろついていると不思議な女の子に出会ったり、そういったものが世界の終りや、壮大なクロニクルにつながる、その生活圏と想像力の距離の近さが、村上春樹の小説が元祖セカイ系なんて称される所以にもなっているんだろう(東浩紀が言ってた、そしてたぶんそれは正しい)。でも、ボクとキミとセカイしかない、いわゆるセカイ系と、村上春樹の想像力との間には、大きな差があるような気がする。セカイ系の作品が村上春樹の想像力をもっと完璧に源流としたものであるのなら、セカイ系の作品はもっと大きく年代や国境を越えるはずだ。しかし、実際のところ、セカイ系の作品が通用するのは主に思春期の少年少女に限られてる(と思う。少なくとも僕にはもう読めない)(国境のほうはわかんないや)。ていうか、セカイ系なんて今は誰も読んでないし書いてもない。残り香を感じさせる作品がかろうじて、たまに陽の目を見るくらいだ。新劇エヴァですら閉じこもるのをやめて、仲間でたくましく生きていきそうだし。だから僕もこうしてセカイ系って言葉を真面目な顔で打ってるけど、実はかなり恥ずかしい。赤面してる。でも村上春樹は違う。僕はまだ読んでないけどこの前だって長編を出してるし、なんか最近低迷してない?みたいな声は聞くけどその注目ぶりと熱狂ぶりはまだまだ衰えそうにない。この差はなんだろう? たぶん、なんていうか、セカイ系村上春樹の想像力を源流にしているのは確かだけど、そこから流れてきているのは距離感の水脈だけで、そこだけが異常に発達した一種の奇形がセカイ系なんじゃないかなぁ。つまり、セカイ系の背景は真っ白だけど、村上春樹の小説の背景は色彩豊かなんだと思う。セカイ系の主人公の瞳には、キミとセカイの終りしか映ってないけど、村上春樹の主人公の瞳には、例えばスーパーマーケットにやって来る客の姿だったり、部屋に配置された家具の質感だったり、世界がきちんとあるんだと思う。セカイ系の主人公は心だけで僕たちとシンクロをはかろうとするけど、村上春樹の主人公は語り口を通じて僕たちとのシンクロをはかろうとする。セカイ系の主人公には生活感を感じないけど、村上春樹の主人公には洒落臭いものの生活感を感じる。このディテールの細かさが、強度の違いになってるんじゃないかなぁ。村上春樹の主人公はとても上手にソファに座るのだ。たぶん、この差が、セカイ系の作品を楽しめるのは人生の本当に短い瞬間だけであるのに対して、村上春樹の小説にはもっと長いスパンで繰り返し読まれうる耐久性を生んでいるんだと思う。もちろん、それだけが村上春樹の魅力の全てじゃないだろうけど。

村上春樹の耐久性は年代も国境も越えてしまう。たぶん、今この日本でここまで多くの場所で読まれうる耐久性を持った作家は本当に少ない。日本はもともとガラパゴス的に発展していくのが得意な国だから、そんな中でここまでデカイ作家が生まれたのは本当に奇跡に近いんじゃないかと思う。だから、いつまでもノーベル賞がどうのとかで騒いでる場合じゃないって。まじで天才だ。新刊が出るたびにはしゃいでるハルキスト(大爆笑)を笑ってる場合じゃねぇーぞ。村上春樹の想像力が長い人生のどの瞬間にも通用することを自分の人生で体験しろ。 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 全2巻 完結セット (新潮文庫)

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