いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

みんな疲れちゃった

 久しぶりに本を読みたくなってずっと本棚にあった小島信夫の『抱擁家族』を読みました。自分たちが外国から受け入れたものは矛盾してる、そのしわ寄せは家族に来る、という文章にあるように、妻とアメリカ人の浮気を発端として崩壊していく家族を書いた傑作、戦後の日本とアメリカの関係をモチーフにした傑作と紹介してしまってもいいのですが、それだけだとすれば、世界地図を見てもどこまでがアメリカの領土なのかわからない、将来は本気でアメリカの大統領になりたいと思っている僕の心にここまで響くわけはないので、つまり、この小説は時代背景を超えた、本物の小説にのみ許された輝きを持った小説だということです。久しぶりに出会えた。本物は旅をする。時を軽く超える。

 この本を読みながら感じたのは、文章から漂う、不気味さ。何かがずれていて、それでいて、どこか疲れている文章。とくに、妻がゆっくり死んでいく後半からの怒濤の疲労感。ただ、不気味なのは、普通に疲れて書かれた文章など、まったく読む気にならないし、肩が凝ってしまって表紙だってもう二度と見たくなくなるようなものなのに、小島信夫にはそれが無いんですよね。まったく、これっぽっちも。僕はこの本を何度だって読みたいと思う。なぜか?

 僕の推理では、おそらく小島信夫は宇宙人で、宇宙人の言葉にどれだけ何かを感じたって、本当にそれを理解することが出来ないということがあるのだと思う。たぶん、小島信夫は金星あたりからやって来てる。

 だから、僕がこの本を読んで感じた疲労感は、疲労感の”ような”もので、僕がこの本を読んで感じた喪失感は、喪失感の”ような”ものなんじゃないかって思う。

ほんとうにいったのだろうか。いったとすれば、いつだったのだろう。

ノリ子は泣き出した。あんな醜い顔をして泣いてはいけない。

(そんな無茶なことはいってくれては困る、そんな無茶なことは)

俊介は客をへだてたところから、躍起になった。泣きやんだノリ子は俊介のそばにやってきた。

「もういいのよ。もういいのよ」

とノリ子はいった。

 これは妻が死んで、残された娘に女中が可哀想、亡くなった奥さんもそう言って心配していた、と言って聞かせる場面です。最近は、紙の本を読んで気になったところは写真撮るようにしていて、カメラロールのなかに残っていた写真の一つから抜粋しました。もう、当時の僕が何を気になってこのページを写真に収めたのか、正確な記憶はありませんが、おそらく、ここに何か奇妙なものを感じ取って、衝動的にパシャリとやったんでしょう。たしかに、読めば読むほど、なんだかわからない気分になってきます。ここで起こっているのは、ノリ子が泣いて、父親である俊介が泣かないでくれと願い、泣きやんだノリ子が俊介のそばにやってきて、もういいと言う、それだけの場面なんですが、なんでしょう、どことなく、居心地が悪い。そもそも、これまで一度だって()で括られた文章なんて出てきたことなかったし、ノリ子、二行後には泣きやんでるし。なんだろう、わからないや。

 と、あんまりわからないみたいに書くと、たぶん読んでみて普通にわかるじゃん、となってしまうので、やっぱりどことなく居心地が悪い、くらいにとどめておきます。それに、たしかにそれは疲労感の”ような”もので、喪失感の”ような”ものであるかもしれないけど、それはそれでれっきとした疲労感だし、喪失感なので、僕たち、生まれた惑星は違っても、きっとそれなりにわかりあえるよ。それなりに、だけど。

 最後に祈りの言葉を引用しておきます。

「先のことは何も考えることはないよ。もし祈るとすれば、 お母さんの魂に祈るのだよ」

  この小説は長男の家出により、さらなる家族の崩壊の予兆を見せて終わります。でも、僕たちは先のことは何も考えることはないよ。もし祈るすれば、死んだ者の魂に祈るのだよ。と思ったのですが、『うるわしき日々』がこれの続編らしいので、祈るのはちょっと先へ延ばしておこうと思います。

おわり。 

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)