いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

今日もお風呂に入りました

ふと、昔に相棒で杉下さんが就活生たちに、個性を競うはずの場でみな同じ格好したがるのは何故だ、というようなことを言っていて、ちょっとガッカリしたのを思い出しました。そういう、定型文みたいなこと言って何かを言った気になるような人が、大嫌いなんですよね。しかし、この僕の定型文みたいなこと言って何かを言った気になる人はきしょい、という言葉も一つの定型文だしきしょいよ、と言われると確かに、と認めざるを得なく、そして、その否定意見すら一つの定型文でしかないよと言われるとそのとおりで、つまり、終わりがないんですよね、こういう思考には。メタ視点を持つことは大事ですけど、メタ視点はどこまでも広がっていく袋小路でしかなく、その先を追い求めていると人生のほうが先に終わってしまいます。なぜそのようなことが起こってしまうのかというと、それは言葉の持つ、なんとでも言えてしまえる、という性質によるものなのですが。というようなことは千葉雅也の本にも書いてあった気がするし、歴史を見ても、メタ視点を持ち込んだ結果、真実を保証できなくなってしまった一時期のミステリなんかがそのことを証明しています。なので、僕たちにはいい加減なところでメタ視点を放棄することが求められてくるわけですが、では、そのタイミングとは?その答えを漫画『ムーたち』に見つけました。『ムーたち』にはセカンド自分、サード自分……という概念があって、これは自分を客観的に見つめるもうひとりの自分、を客観的に見つめるもうひとりの自分、というメタ視点を可愛く描いたものなんですが、ではそれを可能とさせるのは何か、というと、それは個人の意識の量なのです。つまり、言葉が実態のない、どこまでも広がっていく曖昧で無限な存在であろうと、それを操る人間の存在はひどくはっきりとした、有限な存在であるということです。お前のその言葉は、リアルか、フェイクか?ということです。ヒップホップですね。メタ視点によって産まれたその言葉に、お前の魂はきちんと込められているか?ということです。それが出来ていないのなら、僕たちはそこで立ち止まって、じっと考えればいいわけです。何か言いたいことが見つかった。さて、それはリアルか?フェイクか?自問自答こそが唯一の道。そういうことです。

というようなことを考えていたんですけど、なんだかこうして形にしてみると、どこかで読んだことのあるような感じの文章になっている気がして、僕は僕の言葉がリアルなのかフェイクなのかちょっとわからないです。困ったなぁ。