いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

イキルキス読んだ

僕にとって舞城の最高傑作は『煙か土か食い物』でも『ディスコ探偵水曜日』でも『世界は密室でできている』でも『九十九十九』でも『淵の王』でもなくて『ビッチマグネット』だと思っていて、僕は舞城王太郎が《名探偵》や《密室》や《サーガ》や《見立て》や《九十九十九》や《暗号》や《推理》やそういう過剰な道具を一切排除して舞城王太郎が書いてきた小説を、ずっと伝えてきたことをちゃんと書いていて僕は感動してしばらく呆然としていて今でも読み返すたびに同じ感動に包まれる。それから舞城はそういう普通っぽくて通的っぽい短編や掌編や長編を舞城王太郎ファンも呆れるくらいの数量産して僕もその退屈さにどれがどれでどういう話だったのかなんてまったくわからなくなってしまうけど、やはり読むたびに感動はあってその感動が別の短編を読んだ時と同じような感動であったとしても僕はまあ満足する。してしまう。好きだ。好き。退屈だったり通俗的であってもそれは決して退屈でも通俗的でもなくて本当は僕はそこから色々なことを学んでいて、楽しい。おんなじようなことの繰り返しなのは舞城王太郎が《名探偵》や《密室》や《サーガ》や《見立て》や《九十九十九》や《暗号》や《推理》でしか語れない本当のことを語ってきたように、退屈で通俗的でおんなじようなことでしか語れない本当のことがあるからなのだ。というようなことを考えながら『イキルキス』に収録されている「パッキャラ魔道」を読み返してまた同じところで感動して泣いてしまう。それは最後のお父さんの演説のシーンで、そのあとの長男の合唱のシーンで、最期の最後に語られる小説観で、でも僕はそのずっと前から、前の前の話「イキルキス」からすでに感動していてもうよくわからない。何がなんだか結局よくわからなくて、もしかしたらよくわからないフリをしているだけかもしれないとすら思う。言葉にしてしまうと単純化され陳腐化され通俗的に感じられて、僕にはまだそれに耐えうるだけのものがなくて、だからわからないフリをしてその何かを言葉にしないようにしているだけかもしれないけど、僕にそれを断言してしまえるだけの力すらない。僕は弱い。弱くて、か細い。何も言い切れなくて、何も決めきれなくて、何も行動できない。か弱い23歳だ。弱いだけの23歳だ。小説からしか何かを学ぶことができなくて世界への興味が希薄で仕事もできない23歳だ。これから色々なことを学びたいし経験したいし知りたいと思っている23歳だ。そしてもちろん生きていれば嫌でも学ぶし経験するし知る。だから安心して横たわる、僕の魂。