いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

おしまいのひ

 2018年3月4日(日)15時45分。僕は梅田ウィンズにいて、レース開始のファンファーレが鳴るのをただ待っていた。そこにいるすべての人たちが、ただ待つことしかできなかった。息を潜めて、馬券を力強く握りしめて。僕は寝不足の瞳で発射を待つ馬を見つめる。昨夜は断然人気ダノンプレミアムがその人気に応えることができるか心配であまり眠れなかった。それで朝早くに目が覚めてしまった僕は、どうにも胸がそわそわして我慢できずお昼前には梅田ウィンズにいた。「どこいくん?」慣れない玄関で靴を履いていると、後ろから声がした。その頃、僕はずっと住んでいたアパートを引き払って弟の部屋にお世話になっていた。もう僕には大阪に居場所なんてなかった。「競馬行く」
 しばらくして、ようやくファンファーレが聞こえてきた。何かが決まろうとしていると感じた。そして、終わってしまうように思えた。パドックに飽きて壁際に避難した時、ずっと座って熱心に新聞を読み込んでいたおじさんが「ここはこない」と呟いているのを見た。ネット競馬の掲示板の有識者も距離不安やコース適正をしきりに気にしていた。僕は競馬の詳しいことはよく分からないけど、みんながそう云うなら、そうなんだろう、と思っていた。人気ほど勝利は確実とは云えず、そこには少なからぬ懸念点があるのだと。
 そして、馬が発射して、
 どこかでだれかが叫んだ。
 まだ朝の6時だった。今週風邪を引いてから、目の覚める時間がどんどん早くなっている。僕は時刻を確認するために手に取ったスマホを放り投げて、ゆっくりと身体を起こした。今日は朝から大事な映画を観に行く日だった。
 よく昔のことを夢に見る。ダノンプレミアムが圧勝した次の日、僕は少なくない荷物を持って東京行きの新幹線に乗った。着いてみれば東京はひどい雨で、契約した不動産がある中野駅からアパートまでのバスで隣の女の人に「東京はいつもこんな雨が降るんですか?」と訊かれた。知らなかった。女の人は、こっちに住む息子に会いに初めて東京に来たらしかった。僕は適当に笑っておいた。最悪なスタートだと思った。大阪に居場所はなく、東京は僕を歓迎していない。ダノンプレミアムは成功し、僕は負けたのだと思った。僕と、サトノクラウンは。
 あれから、ちょうど一年が経つ。
 王者ダノンプレミアムはダービーの大敗を最後に、今日までついに一度も走ることはなかった。僕のほうはといえば、大した敗北もなく、日々をぬくぬくと消費しているよ。
 もちろん、いろいろなことはあった。あり得ないような出会いもあった。誰かが仕組んでるんじゃないかと勘ぐるような奇跡もあった。そして、たくさんのかなしいこともあった。ずっと、何かをかなしいと感じる気持ちが、僕の中にはある。僕の中にあるのは、たぶん、それだけなのだ。そうして、全てはこれから終わるんじゃなくて、もう終わってしまったんだと気づくのだ。
 新宿の朝は静かだった。僕は意味もなく新宿の地下街を徘徊した。それは、もうどこにも無い、だけど、かつて、確かにあった記憶の残滓だ。イヤホンから聴こえてくるのはバーガーナッズで、全部終わった。全部終わったよ。
 だけど続く。

 映画館にいるすべての人が、緊張しているのがわかった。緊張と不安と興奮。僕はこれと同じ光景を見たことがある。それも、何度も。

 ずっと続いている。
 来週、約一年間の沈黙を破り出走が決まった馬がいる。巨大なスクリーンの前に座り、これから始まるであろう青春について思いを馳せる僕もいる。たしかに何かは終わって行くが、それと同じように続いていく何かもある。
 スクリーンはゆっくりと僕を照らす。
 つづく。