いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

きらめく

 ーーわりぃけど。
 結局、最後まで香賀美くんは僕と目を合わそうとはしなかった。
 新幹線のドアが閉まる。僕は遠くなっていく香賀美くんを、ただ眺めることしか出来なかった。
 それが僕が最後に見た、香賀美くんの姿だった。

 

 香賀美くんとは小学校からずっと同じクラスだった。と云っても、そこに例えば運命とかそういう概念はなく、ただ僕たちの通っていた学校が学年に1クラスしかないようなところだったというだけだ。
 まわりと喧嘩ばかりしてクラスのなかでも浮き気味だった香賀美くんと、人から嫌われることを過剰に恐れていつもへらへらと笑っていた僕。
 普通に暮らしていれば、臆病なだけの僕と、周りとぶつかることを恐れない香賀美くんが関わりあうことなんてまずなかっただろう。
 しかし、小3の夏休み、とある出来事をキッカケに、僕たちの仲は縮まった。ここではその出来事については語らない。香賀美くんを失った僕にとって、その出来事は文字通り宝物であり、僕には自分の宝物を誰彼かまわず見せびらかすような趣味はない。
 とにかく僕たちは仲良くなった。休み時間は二人で学校の隣にある山を駆けめぐった。(休憩時間だけそこに立ち入ることが許可されていた。)放課後は二人で香賀美くんの家に行って、香賀美くんのお姉ちゃんを交えて遅くまで遊んだ。香賀美くんは運動が得意で、サッカーやバスケをすれば僕と香賀美くんのお姉ちゃんの二人がかりでもまったく歯が立たなかった。かわりに勉強はからっきしで、宿題のときだけ僕は香賀美くんより優位に立つことができた。算数の問題に頭を悩ませる香賀美くんを見ているのはなんだかほほえましかった。
 相変わらず、教室のなかでは香賀美くんは窓際の自分の席でぼんやり外を眺めていることが多かったけど、僕が近づくと普通に会話をしてくれた。香賀美くんと仲良くなればなるほど、他のクラスメイトからは疎まれるようになったけど、僕はまったく気にならなかった。香賀美くんがいれば楽しかった。香賀美くんの前でなら、臆病にへらへら笑う必要もなかった。みんな、香賀美くんを怖がって、へんなちょっかいをかけてくるようなこともなかった。
 僕は香賀美くんがいればそれでよかったし、香賀美くんも僕といるときだけは楽しそうにしていた。
 そんな僕たちの仲に変化が生じ始めたのは、小5の夏休み明けだった。
「おい、知ってるかよ。プリズムショーってすっげぇんだぜ!」
 新学期初日、教室で珍しく声を高ぶらせて、香賀美くんは僕の肩を強く揺すった。
 香賀美くんはこの夏休み、お父さんの仕事の都合でずっと東京にいた。どうやら、そこでプリズムショーというものに出会ったらしい。
 プリズムショーとは、どうやら東京のほうで流行っている一種のスポーツのようなものらしいが、まだインターネットも十分に発達していないような田舎町では誰もそんなものは知らなかった。もちろん、僕を含めて。
 香賀美くんは、プリズムショーは祭りだとか、心が燃えるだとか、炎が出るだとか、そういう説明をしたけど、正直まったくピンとこなかった。
 惚けた顔をしていると、香賀美くんは、
「じゃあ放課後うちに来いよ。見せてやっからよ」
 と宣言した。

 云われなくても、僕は放課後は香賀美くんのうちに行くつもりだった。なにせ一ヶ月ぶりに香賀美くんと会ったのだ。僕のほうにも、話したいことはたくさんあった。香賀美くんがいない夏祭りで、新興勢力が幅をきかせ始めたこと。町の図書館で読んだおもしろい小説のこと。台風でラボの扉が一部破損したこと。子猫を飼い始めたこと。僕が猫アレルギーだったこと。山のなかで捕まえたクワガタのこと。クラスメイトの上田くんと二ノ倉さんが二人で祭りに来ていたのを目撃したこと。家のトイレが新しくなったこと。絵日記を描いてなくて昨日まで真っ白だったこと。コーヒーが飲めるようになったこと。夏休みに出会った、不思議なおじさんのこと。町で起こった神隠しのこと。一学年上で、香賀美くんと喧嘩したこともある山上くんが神隠しにあったこと。不思議なおじさんが山上くんの神隠し事件を解決したこと。不思議なおじさんは、自分のことを名探偵だと名乗っていたこと。山上くんに告白されたこと。
 その日は始業式で、午前中で学校は終わった。僕たちはいつもの田んぼ道を歩いて、香賀美くんの家に向かった。
 香賀美くんの家に行くと、縁側で、香賀美くんのお姉ちゃんがスイカを食べていた。聞くと、中学校は明日まで夏休みらしかった。中学生はいいな、と思った。僕も早く大きくなりたかった。
 今日はなにして遊ぶの?と訊いてくる香賀美くんのお姉ちゃんに、香賀美くんは教えねー、と冷たく返した。えー、なんでよー、と香賀美くんのお姉ちゃんは不服そうだったけど、香賀美くんは無視して僕の手を引いて裏山へとさっさと歩き出した。香賀美くんの手のひらはうっすら汗ばんでいた。
 裏山の、崖下にちょうどいい感じの空き地があって、そこはまわりに草が生い茂っていてちょっと外から見ただけじゃ空き地があるなんてわからないから僕と香賀美くんは生い茂る草木をかぎ分けた先にラボを作っていた。香賀美くんのお姉ちゃんも知らない、秘密の場所。段ボールや枯れ木を使って作った二人だけの世界。
「見てろよ」
 ラボに着くなり、香賀美くんは、早速地面を滑り始めた。本当は音楽にあわせて滑ったり踊ったりするらしいけど、僕たちは音楽を持ち運べるような機械は持っていなかったから、セミの鳴き声やどこからともなく聴こえてくる鐘の音や草木がこすれる音をBGMにするしかなかった。
 それでも、香賀美くんは楽しそうに滑っていた。それは例えば、お祭りのときに見せるとびきりの笑顔だった。夏祭りのとき、激しく神輿をかかげるように香賀美くんは滑り、踊った。
 そして香賀美くんは最後に地面を蹴って高く飛び上がった。僕はそれを見たとき、ラボが焼けてしまう!と本気で焦った。実際には香賀美くんの出した炎を何も燃やさず、ただ僕の心を熱くしただけだった。
 うまいこと地面に着地した香賀美くんは、得意げな顔で僕を見た。僕はなぜか目をそらしてしまった。

 それから香賀美くんは毎日放課後、プリズムショーの練習に打ち込むようになった。場所はいつも僕たちのラボだった。香賀美くんが跳び、僕はそれを眺める。退屈ではなかった。香賀美くんのプリズムショーは日を追ごとに良くなっているように思えた。僕は気付けば、香賀美くんのプリズムショーに夢中になっていた。ただ、プリズムショーをしている時の香賀美くんは、そこにいる僕じゃなくて、誰か別の人のことを見ているような気がした。だから、香賀美くんのプリズムショーは好きだったけど、プリズムショーをする香賀美くんのことは、あまり好きにはなれなかった。
 ある日、ついに耐えきれなくなって、帰り道僕は香賀美くんに久しぶりに他のことをやってみないかと誘ってみた。例えば、バスケとか、カードゲームとか、なんでもいい。プリズムショー以外のことを。

 小6の冬休みだった。
「やだ。プリズムショーよりおもしれぇもんなんかねぇ」

 だけど香賀美くんは聞く耳を持ってはくれなかった。
 香賀美くんはまっすぐだった。いつだって自分に正直だった。他人からなんと云われようが、自分のやりたいことを貫き通した。
 香賀美くんにとっては、僕だって立派な他人なのだ。
「プリズムショープリズムショープリズムショーって……。そんなのやって何になるんだよ。この町じゃ、誰もそんなの知らないのに!」
 気づけば僕は叫んでいた。
「……そうかよ」
 叫ぶ僕を、香賀美くんは冷めた目で見つめる……。
「好きにしろよ」
 それだけ云うと、香賀美くんは一人でラボのほうへ行ってしまった。僕を置いて。僕はしばらくそこに立ち尽くして、それから一人で家に帰った。

 

 それから冬休みがあけるまで、香賀美くんと会うことはなかった。冬休みがあけても、香賀美くんと喋ることはなかった。そして三学期も終わり、春休みがあけて、僕たちは中学生になり、クラスが別れて顔をあわせる機会も減った。

 

 香賀美くんが東京に行くことを知ったのは、中学を卒業して高校生になるのを待つだけの何者でもない春休みのことだった。僕は友達の家にいて、何人かで麻雀をしていた。
「そういえばさ、二組に香賀美っているじゃん?あいつ、東京に行くらしいぜ。プリズムショー?とかいうやつの学校に進学するとか。馬鹿みてぇだよな。なんだよそれ」
 その時の僕がどういう感情で行動したのか、僕にもよくわからない。ただ、気がついたら血塗れになった友達が倒れていて、誰かが怒鳴っていた。
 ここは僕がいるべき場所じゃないと感じた。
 ラボに行きたい、と思った。
 僕は友達の家を飛び出して、何度も通った香賀美くんの家までの田んぼ道を走った。
 香賀美くん!香賀美くん!香賀美くん!僕は心のなかで何度も叫んだ。
 久しぶりに見た香賀美くんの家は、記憶とまったく変わらずそこにあった。見慣れた玄関を叩くと、香賀美くんのお母さん出てきた。あら、久しぶりねと陽気に挨拶をする香賀美くんのお母さんに、僕は一言、香賀美くんは、と呟いた。


 もう香賀美くんは駅行きのバスに乗っていた。

 

 それからどうやって駅まで向かったのかを僕はよく覚えていない。かすかに記憶しているのはきれいな馬の背中で、だけど、まさかいくらここがど田舎だとは云え馬がそのへんを走っているわけもないからきっと夢を見ていたんだろう。香賀美くんのお父さんあたりが車で送ってくれたのかもしれない。

 

 駅のホームで、香賀美くんはなぜか大量のネギをリュックに詰め込んで新幹線が来るのを待っていた。その姿が妙におかしくて、僕はちょっと吹き出してしまう。それで緊張がほぐれたのか、久しぶりだと云うのに自然に喋りかけることができた。
「なに、そのネギ」
「……んだよ」
 久しぶりに、面と向かって対峙する香賀美くんは、少し照れくさそうに俯いた。
 当たり前だけど、香賀美くんは小学生のときより背も伸びて、体つきもしっかりしていた。目つきもずっと鋭くなった。もう、小学生のころの幼さはまったく残っていなかった。大人になっていくんだ、香賀美くんも、もちろん、僕も、と思った。
「プリズムショー、続けてたんだ」
「あぁ……?あたりめーだろ」
 そうだ。当たり前なのだ。プリズムショーをしているときの香賀美くんはきらきら輝いていたのだ。その煌めきが潰えるようなことなんてのは、絶対に起こりえないのだ。それは呪いに近い。呪いに近い何かに突き動かされるように、香賀美くんはこれまでプリズムショーをやってきたし、これからもプリズムショーをやっていくのだ。
「……東京、行くんだ」
「ああ。殴んなくちゃいけない人がいる」
 きっとその人が香賀美くんにプリズムショーを教えてくれたんだろうな、と思った。
「香賀美くん、」
 何か云わなくちゃいけない。でも何も云えばいいのかわからない。伝えたいことはたくさんあった。訊きたいことはたくさんあった。だけどそうするだけの時間が僕たちにはなかった。
 ホーム中に響くアナウンスを聴く。黄色い線の内側までお下がりください。
「んだよ。云いてぇことあんならさっさと云えよ」
 だけど、僕は何も云えない。僕は何も云えない。僕は何も云えない。僕は何も云えない。
「……新幹線、来たぞ」
 気づけば香賀美くんはすでに新幹線のなかにいた。そこは黄色い線の外側。僕には絶対に越えることのできないところ。香賀美くんはここではない場所に行くのだと、ようやく実感が湧いた。香賀美くんは、僕じゃ届かない場所へ行こうとしている。どこにも行けない僕を置いて。僕はここにいることしかできないのに。
「香賀美くん、」
 新幹線のドアが音を立てる。香賀美くんはここではないどこかへ行ってしまう。行ってしまおうとしている。

 でも。でも、まだ。まだ、今はまだここにいる。
 伝えなきゃ。

 

 ーー好きでした。

 

 香賀美くんは一瞬、目を丸くして、それから一言だけ、

 

 そして、香賀美くんはもうここにはいない。

 

 それから僕はホームのベンチで一人で泣いた。驚くことに、そこからどうやって家に帰ったのかも僕は覚えていない。

 僕はそれから三日間、熱を出して寝込んでしまった。僕にしては、一日にいろいろなところを忙しく動いたからかもしれない。おそらく僕に移動は向かないのだ。僕は、裏山の、誰からも見えないようなところでひっそりと息を潜めているほうが性にあっている。所詮、ただの平凡。僕はどこにも行けず、ただただ田んぼが広がるだけのこの世界で死ぬまで生きていくのだ。

 一週間後、動けるようになった僕は久しぶりにラボに行ってみた。驚くことに、そこには小学生のときとまったく変わらず、段ボールと枯れ木で出来た小屋があった。
 中に入ると、湿った段ボールや枯れ木の匂いに混じって、かすかに香賀美くんの匂いがした。

 そこは、体を曲げることでようやく寝ころぶことができるだけの小さな世界。
 さようなら、僕の青春。
 好き、でした。
 誰もよりも、何よりも。
 もう二度と戻らない日々よ。
 幸福な記憶とともに、夢も見ず僕は眠る。