いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

東京で働きます。

タイトルの通りです。東京に行きます。さよなら僕の4年間と僕の3年間。

東京。

なんてことない平凡な地方都市で『凹村戦争』や『灰色のダイエットコカコーラ』や『世界の終わりの終わり』を読んで育った平凡な高校生の僕にとって、東京は一つのゴールだった。人生のすべてが黒く光り輝く夢の国だった。フィクションの上にフィクションが塗りたくられた魔法の城だった。懐かしいなぁ。

東京行かせろ。

呪詛のように延々とそう繰り返していたあの頃の僕はもういない。「配属地 東京」の文字を見たとき、僕は普通にやったー、と思った。それだけだったよ。どこに行ったってそこは黒く光り輝く夢の国でも魔法の城でもないみたいだ。終わりはこない。社会が続く。

僕はまだ走り続けなきゃいけないらしい。やれやれ。

つづく。

可愛い

やあ、こんにちわ。

いとうくんだよ。

ポップであり続けることを信条に生きる僕の最近のマイブームは早起きしてコンビニで朝ごはんを買ってそれを公園でゲートボールするご老人を眺めながらむしゃむしゃ食べることだよ。最近は綿矢りさの小説を読んでるよ。昨日は『ウォーク・イン・クローゼット』を読んだよ。その前は『勝手にふるえてろ』を読んだよ。その、さらに、ずーーーっと昔に、『インストール』と『蹴りたい背中』を読んでたよ。僕が密かにつけている読書ノートによれば(僕が高校生の頃に読書メーターとか使うのはダサいなと思って一人こっそりつけ始めたやつだよ。一人でひっそりとやるのがかっこいいと思ってたんだなぁ。去年あたりにやっと二冊目に入ったと思ったら、目に見えてページが埋まらなくなって少し悲しいよね)、僕が『インストール』と『蹴りたい背中』を読んだのは4年前で、流石にそんな昔になっちゃうと内容なんてすっかり忘れちゃったね。『インストール』のほうが面白かった気がするけど、今思うと『蹴りたい背中』のほうが面白い気もする。17歳で綿矢りさが書いた小説を、僕も同じ歳の頃に読んだことになるけど、当時の僕がそのことについてどう感じたのかも覚えてない。しかし、なんていうか、すっかり打ちのめされてしまったな、今回ばかりは。『ウォーク・イン・クローゼット』も『勝手にふるえてろ』もすごかった。「綿矢りさ」で検索をかけようとすると、何番目かに「綿矢りさ かわいい」がサジェストされるけど、やっぱり、みんな、わかってるなぁ、と思う。綿矢りさは可愛い。容姿が、というより、なんていうか、可愛さってのはきっと、一挙一動に出てくるもので、そういう、一挙一動に出てくる可愛さが綿矢りさの小説にはあるんだなぁ。よく、可愛さは武器だなんて言うけど、本当にそのとおりで、なぜなら何かを可愛いと思うのは全人類が持ち合わせている心の機能の一つで、それが武器にならないはずなんてないんだな。可愛いってのはポップなんだ。だから、綿矢りさの小説は売れる。今はどうか知らないけど、少なくとも売れてた。だって、可愛いものが売れなかったことなんて一度だってないんだ。長い歴史のなかで、たったの一度だって。たぶんだけど。

まあ、でも、実際のところ、可愛くない作家なんていない。ていうか、作家にかぎらず、多くの人の目に触れるところにいる人たちはみんな可愛くて、ポップだ。男だとか、女だとか、子供だとか、大人だとか、関係なく、いつだって可愛くあり続ける人だけが、輝き続けるんだな、きっと。

憧れるなぁ。

というようなことを考えている。

おわり。

ウォーク・イン・クローゼット (講談社文庫)

ウォーク・イン・クローゼット (講談社文庫)

 

 

みんな疲れちゃった

 久しぶりに本を読みたくなってずっと本棚にあった小島信夫の『抱擁家族』を読みました。自分たちが外国から受け入れたものは矛盾してる、そのしわ寄せは家族に来る、という文章にあるように、妻とアメリカ人の浮気を発端として崩壊していく家族を書いた傑作、戦後の日本とアメリカの関係をモチーフにした傑作と紹介してしまってもいいのですが、それだけだとすれば、世界地図を見てもどこまでがアメリカの領土なのかわからない、将来は本気でアメリカの大統領になりたいと思っている僕の心にここまで響くわけはないので、つまり、この小説は時代背景を超えた、本物の小説にのみ許された輝きを持った小説だということです。久しぶりに出会えた。本物は旅をする。時を軽く超える。

 この本を読みながら感じたのは、文章から漂う、不気味さ。何かがずれていて、それでいて、どこか疲れている文章。とくに、妻がゆっくり死んでいく後半からの怒濤の疲労感。ただ、不気味なのは、普通に疲れて書かれた文章など、まったく読む気にならないし、肩が凝ってしまって表紙だってもう二度と見たくなくなるようなものなのに、小島信夫にはそれが無いんですよね。まったく、これっぽっちも。僕はこの本を何度だって読みたいと思う。なぜか?

 僕の推理では、おそらく小島信夫は宇宙人で、宇宙人の言葉にどれだけ何かを感じたって、本当にそれを理解することが出来ないということがあるのだと思う。たぶん、小島信夫は金星あたりからやって来てる。

 だから、僕がこの本を読んで感じた疲労感は、疲労感の”ような”もので、僕がこの本を読んで感じた喪失感は、喪失感の”ような”ものなんじゃないかって思う。

ほんとうにいったのだろうか。いったとすれば、いつだったのだろう。

ノリ子は泣き出した。あんな醜い顔をして泣いてはいけない。

(そんな無茶なことはいってくれては困る、そんな無茶なことは)

俊介は客をへだてたところから、躍起になった。泣きやんだノリ子は俊介のそばにやってきた。

「もういいのよ。もういいのよ」

とノリ子はいった。

 これは妻が死んで、残された娘に女中が可哀想、亡くなった奥さんもそう言って心配していた、と言って聞かせる場面です。最近は、紙の本を読んで気になったところは写真撮るようにしていて、カメラロールのなかに残っていた写真の一つから抜粋しました。もう、当時の僕が何を気になってこのページを写真に収めたのか、正確な記憶はありませんが、おそらく、ここに何か奇妙なものを感じ取って、衝動的にパシャリとやったんでしょう。たしかに、読めば読むほど、なんだかわからない気分になってきます。ここで起こっているのは、ノリ子が泣いて、父親である俊介が泣かないでくれと願い、泣きやんだノリ子が俊介のそばにやってきて、もういいと言う、それだけの場面なんですが、なんでしょう、どことなく、居心地が悪い。そもそも、これまで一度だって()で括られた文章なんて出てきたことなかったし、ノリ子、二行後には泣きやんでるし。なんだろう、わからないや。

 と、あんまりわからないみたいに書くと、たぶん読んでみて普通にわかるじゃん、となってしまうので、やっぱりどことなく居心地が悪い、くらいにとどめておきます。それに、たしかにそれは疲労感の”ような”もので、喪失感の”ような”ものであるかもしれないけど、それはそれでれっきとした疲労感だし、喪失感なので、僕たち、生まれた惑星は違っても、きっとそれなりにわかりあえるよ。それなりに、だけど。

 最後に祈りの言葉を引用しておきます。

「先のことは何も考えることはないよ。もし祈るとすれば、 お母さんの魂に祈るのだよ」

  この小説は長男の家出により、さらなる家族の崩壊の予兆を見せて終わります。でも、僕たちは先のことは何も考えることはないよ。もし祈るすれば、死んだ者の魂に祈るのだよ。と思ったのですが、『うるわしき日々』がこれの続編らしいので、祈るのはちょっと先へ延ばしておこうと思います。

おわり。 

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

 

 

芥川賞になれなかった小説を読みました

少し前に芥川賞候補になった『ビニール傘』を読みました。社会学者の岸なんとかさんの小説です。お恥ずかしながらそちらの分野には疎いもので、初めてお聞きするお名前でしたが、すごいですね、お上手です、小説が。

街があって、その街に住む人々がいれば、小説は出来上がるんだということがよくわかります。でも、なんだかちょっと暗くて好きになれなかったので50点。

僕はこの本で感動した文章を引用したり、読み返したりしながら感想を書きたいのですが、あいにく読み終わった本をどこかに置いてきてしまったので、記憶だけを頼りに話していきます。

まず、表題作の「ビニール傘」はかなり面白く、何が面白いかというと、顔を与えられた語り手がいないところが面白かったです。

小説の冒頭で、髪が地味な水商売の女を乗せ北新地へ向かうタクシードライバーが俺として語り、しばらくして一行の空白の後、あー、髪が地味な女と遊びてー、と思う俺が出てきて、あれ、と思っているうちに、タクシードライバーってどうなんだろ、でも俺運転できないからなー、という語りがあって、あ、この人はさっきまでの俺とは違う俺なんだな、と読者にわからせる手際もなかなか上手いです。

そこで、読者はこの小説にはまず、大阪という街があって、そこに住む俺たちの小説なんだな、というふうに想像することができます。で、実際そういうふうに、コンビニ店員だったり、日雇い労働者だったりする俺が語り出して、でも、その語り口の雰囲気や、俺の目に飛び込んでくるカップラーメンのゴミや港の風景はみんな同じなので、なんだか、ぼんやりとしてきて、そこで改めてこの小説はすごいなぁ、となるわけです。そしたら、いつの間にか語り手は私になっていて、しばらくすると布団のなかに潜り込んでくる犬のイメージになって小説は終わりました。

この小説で語ることとなった私と俺はどこかで関係しているか、もしくは関係していなかったはずで、しかし、どの俺と関係していたのか、していなかったのかは語られることなく、小説は終わっていき、街に無数に転がる可能性と、その可能性の空虚さっぽいことを胸に残していくので感動します。すごい。文章もとても上手いのでいいなぁ、と思いました。でも今は黒い髪の水商売の女の話を聞いてやりたいって気分じゃなかったんだよなー。出会う時期を間違えました。

次に、「背中の月」ですが、こちらは、いわゆる虚と実が入り交じるよくあるあれで、大阪の侘しい情景やそこに暮らす人の感じを書くのが上手いので、そういうのが組み合わさってなかなか没入感のある作品になっていました。寂しいなぁ、ってなりました。すごい。でもつまんかったですね。

全体としてはかなり面白かったのになー、 ちゃんと好きになってあげられなくて悲しい。唯一、ちゃんと好きになってあげられたところは、ページに対して文字が少なく、そのうえ大阪の風景写真なんかを挿入してなんとか単行本の体裁にしていたところで、こういう、作者や編集者のごまかしみたいなのって、小説に書かれていることよりもずっと本当のことのように感じられて、僕は好き。でも悲しいことに、もうそのジャンルには中原昌也という先駆者がいるんだ……。彼はページに対して文字を少なくして、写真を挿入して単行本の体裁にしただけじゃなく、後ろに自分の音楽CDをくっつけて2000円くらいの値段にしてたよ……。かなわないね。

なので、本を読んだ僕は、本を閉じて、50点かなぁ、と呟きました。30点だったかもしれない。呟いてすらなかったかもしれない。

どちらでも良い。すべては作り話だ。遠くて薄いそのときのほんとうが、ぼくによって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった。山下澄人大好き。

おわり。

しんせかい

しんせかい

 

 

太陽は傾きづつける

今日はたくさん歩きました。ただ意味も目的もなくひたすらひたむきに歩くことを、僕達は散歩と呼びます。

さんぽ。散歩、の素晴らしいところは、それをしたところで、何か重要な発見があるとか、貴重な体験をするとか、人間的に成長するとか、そういうことがないところです。いち、で始まれば、いち、で終わる。一歩も進まないし、退くこともない。完全停止。無風状態。流れ行く時間に一人取り残される。太陽は傾きづつける。僕達は陽の光があたるところから、少しだけ外れる。

一息つく。

さて、何をしよう。なんでもできる。何をしても、それは散歩になる。今なら。今だけ。ただぼんやり歩いてみてもいい。何か考えごとをしながら歩いてもいい。不安になったら、走り出してもいい。少し疲れたら、木陰で休んでもいい。無理に歩き続けてもいい。ちょっと歩いて、飽きたら、そこでもう「やーめた」って言って辞めてしまってもいい。言わなくてもいい。服装もなんだっていい。少し暑ければ上着を脱げばいい。ちょっと寒ければ、マフラーを巻こう。サンダルでペタペタ歩いてもいいし、動きやすいスニーカーでステップを踏みながら歩いてもいい。革靴やハイヒールなんかはおすすめしない。でも、どうしてもというなら、それでもいい。もちろん、裸足でもいい。歩ければなんだっていい。車椅子でもいい。自転車でもいい。向こうから知ってる人が歩いてきたら、声をかけてみてもいいし、知らないふりをしてもいい。向こうから知らない人が歩いてきたら、勇気を出して声をかけてみてもいいし、俯いて知らないふりをしてもいい。よくわからない動物や花を写真におさめてもいいし、視界におさめなくてもいい。お腹が空いたら適当な喫茶店に入ってもいいし、コンビニで簡単に済ませてもいい。人の視線が気にならないのなら、歌いだしてもいいし、ずっと口を固く閉ざしていてもいい。少し歩いてみて、なんだか楽しい気持ちになってもいいし、いい加減うんざりしてきてもいい。何も感じなくてもいい。太陽は傾きづつける。どれだけ歩いたっけ?どうでもいい。帰り道どっちだっけ?適当でいい。何かやらなくちゃいけないことがあったはず。忘れちゃっていい。タクシーや電車やバスを使ってズルしてもいい。そのまま家に帰ってもいいし、帰らなくてもいい。太陽は今どこだろう?どこだっていい。いつ寝たっていいし、いつ起きたっていい。明日も散歩してもいいし、しなくてもいい。僕はしない。

おわり。

卒業は終わりじゃない、新しいはじまり

少しずつだけど、でも、たしかにしっかりと暖かくなっていく今日この頃。まるで僕の心を優しく解きほぐしていくかのようだ。

優しい光に包まれて、何もかもを許せてしまえそうな、そんな夜。

僕は明日、大学を卒業する。

長かった、本当に長かった学生生活は、これで、もう、終わり。これ以上は続きません。

ありがとう。

目を閉じると、その一瞬、そこにはこれまでのすべてが凝縮されていて、でも、目を開けると夢から覚めたあとのような、そんな不思議な感覚。

色々なことを思い出す。

大学一回生の頃、なにがあったっけなぁ。

大学二回生の頃、うーん、あんまり覚えてないや。

大学三回生、まあ、なんか、わかんないや。

大学四回生は……忘れちゃった。

記憶にも残らないような、なんてことない平凡な日々が、僕の学生生活のすべてだった。一日と一行が等価な日々。超展開も感動も幸せもない日々。

でも、楽しかった。

超展開も感動も幸せもなかったけど、平坦や無感動や不幸だったわけじゃない。このままでいいのかなって不安で眠れない夜は何度だってあったけど、今はちゃんと胸を張って言える。これでよかった、って。さよなら眠れない日々よ。さよなら大嫌いだった世界よ。さよなら大好きだったセカイよ。

あともう一度、目を閉じて、開けたら、卒業式。

全然実感が沸かない。

卒業研究とかどうなったんだっけ。思い出せない。色あせていく僕の平凡な日々よ。

泣いちゃうのかな。僕は涙脆いからなぁ。どうなんだろう。わからない。未来は何も決まってない。今、はっきりしてることは、僕は僕の学生生活を誇りに思っているってことだけだ。

おわり。

不可能を可能に

タイムラインで知ってる人がわからない文脈でエアリプを飛ばしたりしてるのを見ると、みんな自分だけの視点でモノを見て行動しているんだなぁ、と感慨深いものがあって感動で涙が止まらなくなる。感慨深いことに、人は自分の一生しか生きることができない。どれだけ短くても、惨めでも、幸せでも、無感動でも、超展開でも、たった一回。だから僕たちは僕たちの代わりに短くて惨めで幸せで無感動で超展開な人生を歩む誰かの物語を読む。誰かが見て得て体験した人生を生きる。

というわけで、『ささみさん@がんばらない』を3巻まで浮遊感覚的読書法で読みました。浮遊感覚的読書法とは、僕が編み出した読書法で、浅い睡眠と覚醒を繰り返しつつ、読書をするというものです。これにより、睡眠と覚醒、彼岸と此岸、虚構と現実、無意識と意識、読者と作者、感覚と思考がごっちゃになって何がなんやらてんやわんやで今自分がどこまで読んだのか、何を読んだのか、誰が語ったのか、何が起こったのか、しまいには文字を読んでいるのか読んでいないのか、それすら区別つかなくなります。浮遊感覚的です。しかし、現実だって、今自分がどこまで来たのか、何をしたのか、誰が語っているのか、何が起こっているのか、そもそも自分は起きてるのか、寝てるのかなんてはっきりとわかんないわけですし、つまり、浮遊感覚的読書法とは現実を虚構に近づけるんではなくて、虚構を現実に近づける読書法なわけなんですよ。『ささみさん@がんばらない』はささみさんが引きこもっている話が面白いですね。2巻の最初の話とか、あんまりそういうミステリっぽい仕掛けみたいなのを読みたいわけじゃないんだよなってなりますね。でも2巻はぐったりしているささみさんを語るささみさんが書かれているので感動しますね。後から聞いたって誰に聞いたんだろう、って思ってたら文字通りの神の視点だったのとかも感動しました。アクロバティックだなぁ。1巻のあとがきを読む感じ、パラフィクションみたいなことがしたいのかなって感じはするけど、ここでの読者ってささみさんなのでパラフィクションみたいなことがしたいわけじゃないのが悲しいですね。でもパラフィクションってなんなんですかね。佐々木敦の本を読んでもよくわかんなかった……。たぶん、《読む/読んだ/読んでいる》ことによって立ち現れる『ナニカ』、《読まれる/読まれた/読まれている》ことに自覚的な小説って感じだと思うけど、どうですかね!?難しい話がまったくわかりません。もっと肉体で書かれた文章が読みたい。次は家にあるぶんだけ『人類は衰退しました』を読むことにします。