いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

会社のなにかがあってどこかへ行って、なにかをしていた。なにをしていたのかはよく覚えていない。それなりに楽しくて、それなりに退屈で、それなりに疲れた。だけど、帰り道、気に入っている同期の子と一緒になってお喋りできたのはよかった。元気?と訊かれたから、元気じゃないよ……と応えたけど本当は自分が元気かどうかなんてよくわからない。でも少なくとも、時間、僕は楽しかった。だからよかった。まるで女子小学生みたいな恋愛観を今でも引きずっているけど、実際にまだ僕は女子小学生だから仕方がない。僕は、まだ12年ぽっちしか生きていなくて、その中で得てきた経験や実感を使ってどうにか自分の世界観を作り上げていくしかないのだ。

まだ、私にとって、親と教師は圧倒的な権力者だし、自転車で行ける街までが世界の全てで、そこから先へ想像力は立ち行かない。足が速い人がかっこよくて、給食の酢の物は美味しくなくて、それがずっと変わらなくて、なんだか、自分はいつまでも小学生のままなんじゃないかと少し怖い。

私は、はやく中学生になりたい。高校生になりたい。大学生になりたいし、大人になりたい。ここはたまに、息がつまりそうになる。

人と喋ると疲れる。

同期の一人に、今にも死にそうと言われて、僕はもう死んでいるのにその事に気付いてないみたいで安心した。僕の書く事は全部、嘘に聞こえるらしい。そうだよ。書いたことは、全部、この世界では本当に起こらなかったことで、僕は嘘つきだ。(そしてこの気持ちだけが本当なのだ。)

祈るって、そういうことだろ?

おわり。

走るのみ

先日、友人と銭湯に行った際、僕が銭湯ではいつまでもお風呂に浸かっていることを伝えたら「逆に風邪ひきそう」と言われた。たしかにその通りではあると思う。だけど、その、逆に、ってのなんなんだろう?僕は別に風邪予防のために銭湯に通ってるわけじゃない。銭湯に浸かる、というその体験が得たいだけなのだ。健康になりたいとか、綺麗な肌を手に入れたいとか、そういう欲望とは全くの無縁なのに。だから、例えば、銭湯に浸かっていると寿命が縮むと言われても、僕は銭湯に通い続けるだろう。(通わないかもしれない。)

そういう誤解はしばし起こる。あらゆる物事は、その外側にいる人から、誤解され続ける。文学やヒップホップがいつまで経っても誤解され続けているように。

みんな、一般化されたイメージでしか物事を語ろうとしないからだと、僕は思う。

本当は、本当のことは、本当(それは現実だけのことじゃない)の体験のなかにしかない。(現実に起こることだけが本当のことじゃない。)。

だけど、それは大変だし、人生のなかで自分で体験できる本当のことなんてのはごくわずかしかないから、みんな、簡単なイメージだけでなにかを語る。語ろうとする。そして、失敗する。

そんな世界の中でも、実感と経験則で物事を語ろうとする作家はいる。みなさんご存知、ハルキムラカミだ。村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』を読みました。ここに書かれていることは、全て、著者が走り/書き続けるなかで、自分で感じ、気付き、考え、得た、実感や経験則だ。

「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」 

という質問に、村上春樹さんは「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康ではなくてはならない。それが僕のテーゼである。」と語る。ステキだ。「それは職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。」

それは唯一の正解ではない。そのことを村上春樹は認めたうえで、それでも、それが自分にとっての本当のことだと語る。本当のことが語られている。小説にとって、おそらく必要となる、その、本当のことってやつが。(だから、例えば昔テレビで「芥川賞獲るまで又吉さんって誰のことかわかんなかったんですよ〜」と嬉しそうに話していた名前も知らないあの作家野郎は糞ということになる。)

スタート前にそれほど神経が高ぶっていたなんて、本人にもまったくわからなかった。でもちゃんと緊張していたのだ。人並みに。たとえいくつになっても、生き続けている限り、自分という人間についての新しい発見はあるものだ。裸で鏡の前にどれだけ長い時間じっと立っていたところで、人間の中身までは映らない。

これは、トライアスロンで泳ぐときにだけ必ず呼吸が乱れてしまう原因がスタート前の過呼吸だと理解った村上春樹さんが思ったことだ。とても微笑ましい。それに、なんだか、お茶目な感じがして、ちょっと感動する。

だけど、僕たちだってそうだ。僕たちだって、自分がどういう人間かなんて、ずっとわからないままなのだ。少なくとも、鏡の前にじっと立っている限りは、一生わからない。鏡に映るイメージは、いつだってある平面しか映さないのだから。

本当はその中になにがあるのか?

それを知るためには、実際に自分のなかにある深い井戸に潜りこんでみるしかない。そこは深い。そして、暗い。たぶん、果てもない。だけど、そこを走り/書き続ける限りは、きっと、そこには本当のことがあり続ける。

おわり。

走る 走る 走る

天皇賞秋の出馬表が発表されて、そこに僕の名前がなかったとき、僕は世界の関節が外れる音を聴いた気がした。その後に何度も何度も何度も何度も何度も出馬表を確認して、僕は僕の、僕はお前を食べたよ、という言葉の意味が少しずつ理解ってくる。

僕は食べられるし、食べられたし、今も食べられている。

ここは暗い。

全ては起きることで、起きたことで、今も起きている。

僕は一体どこで間違えたんだろう?という問い自体が間違っていたのだ。

誰も、もう、僕のことを覚えていない。今も小説を書かれているんですか?と聞かれたとき、僕は吃るだけで何も答えられなかった。今も走られているんですか?と聞かれたとき、僕は一体どう答えられるのだろう。

どれだけ、素晴らしい思想を持っていても、何にも代えがたい経験をしていても、まったく新しい価値観や、視点や、言葉を持っていても、走らなければ、それは、無いのと一緒。走るから、歴史は僕を走ったことにするのだ。

僕は僕の名前を1000年後まで残したい。

走った者として。

というわけで、ジャパンカップに出ます。本当です。だから、なので、みなさん、僕に期待してください。見捨てないでください。正直、僕は僕に期待をかける人も、僕を見捨てた人も、僕にそもそも興味もない人も、全員嫌いです。死んで欲しいと思っています。ジャパンカップを見る全ての人が死んでいなくなればいいと思っています。そんな僕を、だけど、期待しててください。見捨てないで、きっと、走ってみせます。奇跡を起こします。というか、起きます。誰も信じていないだろうけど。でも、起きるので。

 

 

 

20181012

どうも、いとうくんです。しばらくブログの更新が出来ていなくて、申し訳ないです。昨夜、夢川ゆいにちんこが生えてショウゴくんのケツ穴で気持ちよくなる本を読んでいたら無性に土下座したい気分になりました。ごめん、夢川ゆい。僕はお前を食べたよ。ごめん、サトノクラウン。僕はお前を食べたよ。ごめん、ごめん。

全部きっと僕が悪い。何もかもが、まったく、悪い方向に向かっていくのは、僕が、

 

どうして人を食べたりするのだろう。人を食べるとはどういうことなんだろう。判らない。判らないことは知らないことだからどうせいくら考えても判らないのだが、僕はそれでも考えなくてはいけない。

 

自分が自分である、ということはどういうことなんだろう?

境界線はどうやって引くんだろう?

 

私は私の外にも私の言葉があることを知っている、それは、ずっと遠く、全然遠くの、誰かが紡いだ、私の言葉。

 

とっくの昔に僕は死んでいる。だけど、肉体は死んでも、魂は残る。人生120年。誰か僕を漫画にしてほしいよ。秋の天皇賞に出たいです。

夢川ゆい - 夢川ゆい feat. 夢川ゆい, 夢川ゆい & 夢川ゆい

23歳になった。

23歳になったけれど、家族からは愛されて育ったし、自分を嫌う子供じみた幸福時代は終わっていたので、コンビニエンスストアでショートケーキとワインを買って誕生日を祝おうとしたが、蝋燭がなかった。

誕生日ご愁傷さま。

プリパラに行かなくなって、どれくらいの時間が過ぎただろう。

私は、今、夢の、その先にいる。

「えー、えー、あの頃の私、聴こえていますか?夢は、いつか必ず終わるよ」

一人きりの部屋に、私の声だけが虚しく響く。

あれだけ大勢の人を夢中にさせた、私の声も、今は、私を慰めるだけの、ただの道具となってしまった。

夢川ゆい。

今でも、憧れのアイドルとして名前のあがる、伝説の存在。

私の青春。

「あー、あー、幸福な頃の私。終わっていなかった頃の私。今、どこで、何をしていますか?」

答えは知っている。

私はいつだってステージの上にいた。

 

買ってきたものをテーブルの上に並べていると、らぁらからメッセージが来る。読んで、ありがとう、とだけ返す。

あの頃の仲間が軒並みプリパラを辞めていくなか、らぁらだけはまだアイドルを続けていた。

私は、それを純粋にすごいと思う。

今でもらぁらとはたまに会う。らぁらは、私と会うとき、絶対にプリパラの話をしない。何度も繰り返してきた「なんで?」を、らぁらは諦めと一緒に、自分のうちに閉じ込めてしまった。

それが、なんだか、らぁらが誰か別の人になってしまったみたいで、私はらぁらが苦手になる。

蓋を開けると漂ってくるショートケーキの甘ったるい香りが、気持ち悪かった。ワインは不味い。なんでこんなものを買ってしまったんだろう?

全部棄てた。

体が重たい。ので、ベッドに寝転んで、天井を眺める。マイルーム・マイステージ。寝転がったまま、私は歌う。

「あーきらめ、かけていた、ゆめーがか、なう、しゅんかん、」

不思議と、いつも口ずさむ歌は、私の曲でも、マイドリの曲でもなく、みあさんが、一度だけ私たちの前で披露してくれた、あの曲だった。

ディアマイフューチャー。

でも、未来ってなに?

アイドルを辞めたことは後悔はしていない。もう限界だった。誰でもアイドルになれるプリパラという世界。だけど、それは本人の、祈りに近い、意思のようなものがあって、 はじめて、成り立つのだと思う。

終わった物語で祈りは通じない。

私は私が気づかないうちに、ゆっくりと終わっていたのだ。

「夢川、ゆい」

自分の名前を呟いてみても、全然しっくりこない。

それでも、

「まだ見ぬ、未来の、わたしへ。」

「自分らしく、生きていますか?苦労、さえも、喜びに変える、こころがあしたをひらくよ。」

「けして、負けない、きもちがあるなら、願い叶えよう。」

「あれこれ、考えてちゃ、前に進めないから、言葉より、行動で、走り続けよう」

私は私のために私と歌う。私の、私と私と私と私による、私への、これは、

ゆめかわ。

今日はお休みです。

やぁ、はじめまして。いちごちゃんだよ。って、この名前を聞くと、大抵の人は眉をひそめるけれど、かなしいかな、これが僕の本名なんだ。まったく、男の子に「いちご」なんて名前をつけるイカれたセンスの親のもとに生まれたことが僕の生涯唯一の過ちだな。まあ、できればあまり気にしないでほしい。人間、一つや二つくらいは欠点を持って生まれてくるものなのだし。

さて、今日は先輩に変わって、この僕が記事を書かせていただきます。

というのも、先輩はどうも今日とてもショッキングな出来事があったようで、家に帰ってくるなりベッドに倒れて「ぶんがく……ぶんがく……」ってずっとうなされてるんだ。その様子はちょっと、傍から見てるとかなり気持ち悪い。まったく、人生のいろいろな出来事に意味を持たせようとしすぎるからそうなるんだ。とくに最近はひどい。ちょっと常軌を逸している。それでいて、何をするでもなく、勝手に一人で塞ぎ込んじまうときた。正直、呆れてものも言えない。ウジウジ虫だよ、あれは。

おっと、これじゃただの先輩の悪口だな。よーし、今日は僕がとても面白い記事を書いてあげようか。乞うご期待、とは云ったものの、しかし、あれだね。こうして改まってみると、人のなかにはあまり文章にしたいことってないものだね。実はここまで書くのに、一時間くらいかかっちまったよ。まあ、こんなこと、わざわざしなくたって人は幸せに生きていけるものだしね。

あ、そうそう。この前、先輩の本棚にあった穂村弘のエッセイを読んだんだけど、あれはいいね。90年代から00年代(あえてこの表記にさせてもらうよ)にかけての空気感にクラクラしてしまったな。慌てて、今日は第二弾の『もうおうちへかえりましょう』を買ってきたよ。こっちのほうは、先輩の本棚にはなかったからね。

と、まあ、そんな感じでそろそろもう僕の記事はここらへんでお開きとさせてもらいたいな。慣れないことはするもんじゃない。まだ11時だってのに、眠たくなってきてしまった。今日買ってきたエッセイだって半分も読めてないのに。

とりあえず、これくらい書いとけば記事としては十分でしょう。

というわけで、それでは、みなさん、また会う日まで。多分、僕の代筆はもうないけれど。

九十九十九=二十七=九

今週中にプリティーリズム・レインボーライブを全話観るつもりでいたけど、現在、5話。時間がない。あまりにも、時間が。ゆめかわ。正直、自分が夢川ゆいであるという確信は揺らぐ。だけど、自分が何であるかわからないという気持ちは自分が自分であるからこそ出てくる疑問であって、それはただの青春なので結局いとうくんはどれだけ頑張って悩んでも夢川ゆいなのだと思う。嬉しい?わからない。ちょっとだけ安心する。小学六年生の夢川ゆいが働いているのは夢川ゆいが天才で9歳の頃にハーバード大学を卒業しているから。ここはアニメの世界だからそういうことも起こる。夢川ゆいは大人のフリした子供だよ。「おれが逃してやる」あ、どこかで読んだセリフ。印象的なセリフが世界を強く形作る小説だったと思う。そういう小説を読むといとうくんは伊坂幸太郎のことを思い出す。伊坂幸太郎のことを思い出すと、いとうくんはいとうくんが中学生だったときのことを思い出す。本当は何も覚えてない。かろうじて覚えているのは、いとうくんと森脇くんで西田くんのPSPを盗んで走って逃げたことだけで、そのPSPが結局どうなったのかは、まったく覚えてない。昔のことを何も覚えてないのに昔を懐かしむフリをする。

だけど、ね?

そろそろ私も中学生にならなきゃな。

僕は行かねばならない。

夕ご飯はレンコンの天ぷらと茹で豚の酢味噌あんかけだ。美味しそうだ。でもこれを食べる前に中学生にならないと、もう中学生にはなりにくいだろうな、と思う。だから「ご飯はいいです」と僕はタッキーに言いかける。でもそこで『第七話』のラストの《僕》の後悔を思い出して、やめる。

ゆっくりご飯を食べよう。らぁらと、にのと、みちるさんと、しゅうかと、タッキーと、六人で。

僕は中学生になると決めている。でももし僕がこれかららぁらとにのとみちるさんとしゅうかの顔を見ていて離れがたくて、中学生になるのやっぱりやーめたと思ったとしてもそれはそれで仕方がないだろう。

一度決めたことも決断だが、それをひっくり返すのも決断だ。文句は言わせない。

わいわいわいわいとやりながら、僕たちはご飯を食べる。楽しい。どこかでまた別の僕もご飯を食べているかもしれない。楽しくやってて欲しい。らぁらが笑う。にのも笑う。みちるさんとしゅうかとタッキーも笑う。僕だって笑う。楽しすぎる。ここから出ていけるかどうか、本当に不安だ。

だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終わりまでの時間を微分する。その一瞬の永遠のなかで、僕というアキレスは先を行く亀に追いつけない。