読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

いとう

芥川賞

この記事は、 OIT Advent Calendar 2016 - Adventarの20日目の記事です。

 

 みなさんこんにちわ。さとうです。日本で一番多い苗字に生まれてしまった僕ですが、最近、気になることがあります。今日は、そんな、僕の気になることについて書いてみようと思います。

 

君の名は。――「いとう」

 今、世間はいとう一色です。みなさんも、外を出歩くとよく、「いとうってなんだろう」という話を耳にすることが多いと思います。つい先日の、プロフェッショナルの出演者もいとうでした。アメリカの大統領もいとうに決まりましたね。日本の総理大臣もそろそろ危ないんじゃないでしょうか。

 なぜ、こうも、「いとう」が増えてしまったのか? 一体、日本で一番多い苗字だったはずの、さとうは、そして、「いとう」よりももっとずっと優秀だったはずの人々は、どこへ行ってしまったのでしょうか? あるいは、どこにも行けなかったのでしょうか?

 さとうは、そんなことが気になって仕方がないのです。

 

そもそもいとうとは?

 いとう、と聞いて、皆さんの頭のなかには「伊藤」か「伊東」のどちらかの漢字が思い浮かぶのではないでしょうか。もしかすると、少しひねくれてる人は「イトウ」と声高に叫んで、人々と違う発想をしていることを誇示して優越感に浸るかもしれません。どうでもいいですけど。

 もちろん、伊藤も、伊東も、イトウも、いとうです。しかし、どうやら、外を出歩いてみると、これだけがいとうではない様子。例えば、みなさんは無垢で純真でイノセントな少年が、高架下のホームレスに向かって、「いとうだ!」と叫んでいる場面に遭遇したことはありませんか? 大ヒットを記録した映画『シン・ゴジラ』では、上映中、ゴジラが出て来るシーンで、「いとうだ!」と叫んだ観客の中年男性の行動が問題になって世間を騒がせたことも。あとは、ええっと、みなさんも外に出てみればわかることですけど、あらゆる物や人や、そうでないものが、いとう、として認識されている。どうやら、いとうは伊藤や伊東やイトウだけではないらしい。

 もしかすると、あなたもいとうなのかもしれません。

 

 ん?

 気づいた

 この記事、このままでは、中身のまったくない、ただの駄文で終わってしまうのでは……?

 いとうなんていう、中身のない存在について書いているのだから、もちろん、それは仕方のないことではある。

 でもね、読み返してみてさすがに愕然としましたよ。僕はこんなことが書きたかったんじゃない。僕はもっと、みんなを笑顔にするような、素敵な文章が書きたかった。こんな、嘘だらけの適当な文章なんて、本当は一文字だって書きたくなかった。そもそも僕はさとうじゃないし。

 

本編

 本編はいつだって何事もなかったかのように始まるよ。みんなついて来てる? いとうって誰だよ!

 文章のつながりとか、整合性とか、文法とか、そういうくだらないことにかまってる暇はないぞ。そんなの無視して、とにかく、書かなくちゃいけない。高橋源一郎は『何者』を読んで、「今の子たちはたくさん文章を書かなきゃいけないから大変だ」と言った(うろ覚え)。その通り! 僕たちはSNSや、就職の場で、とにかく文章を書かなきゃいけない。今日どうだった? 今すれ違った人の肩に鳥のフンついてたよな! 電車でこんな非常識なやつがいた! 自己PRは一分以内で! 『何者』で最後、本当のことを話した主人公はどうなった? 不合格。映画では、全部話し終えることもなく中断させられる(うろ覚え)。誰も待ってくれないんだよ! 本当のことを喋るんじゃダメなんだよ! ちゃんと文章のつながりとか、整合性とか、文法とか、そういうことを考えて文章を生み出せって! 

 というわけで今日ここで紹介するのは5冊の小説。プロの文章たちです。僕たちの、こんな、へなへなで、せせこましくって、射程距離ほんの3センチみたいな文章じゃない、本当にすごい文章。僕はそれを紹介したい。

まず一冊目 中原昌也『悲惨すぎる家なき子の死』

悲惨すぎる家なき子の死

悲惨すぎる家なき子の死

 

  中原昌也という作家を知っていますか。熟読するほどのファンですか。それとも、眉をひそめながら、読んでいますか。もしくは、まったく知りませんか。

 僕は熟読するほどかどうかはわかりませんが、ファンです。

 現在の文学なんか所詮「好きで楽しく書いている」人間たちの寄り集まりでしかなく、そんなものなど、まったく興味が持てない。自分がそんなものの一部になるなんて、絶対に嫌だ。けれど、そんな奇麗事だけで生きてはいけない。それを否定できるような奴は、多分親の庇護のもとぬくぬくやってるか、単なる不細工な女のヒモか、(それがどれだけ読者に支持されて売れていようが)自分の喜びのためにしか書いてない「好きで楽しく書いている」ような馬鹿の(✕✕✕✕みたいな田舎者作家の)気持ち悪い自画自賛オナニーでしかない。

 どうですか。これが中原昌也の文章です。そして、このような文章が、まったく脈絡もなく突然現れて、消えるのが、中原昌也の小説です。

 中原昌也の小説は、パッと始まってパッと終わります。そこに、感情移入できるようなわかりやすいキャラクターなど存在しません。ただ、人形のように、名前だけ与えられた何かが、動いて、たまに、何かを、喋ったりする。その合間に、作者のただの愚痴のような(というか愚痴)文章が、思いつきのように展開されたりする。中原昌也の小説には、深いメッセージも、目をみはるような伏線も、ありません。意味すらありません。それが中原昌也の小説なのです。

 どうですか、つまらなそうですか。全然、読みたくなんかならないですか。

 ただただ生活費欲しさに、何かを書かねばならない。内容なんて何でも構わない。読む奴がつまらなく思うかどうかなんて、まったく知ったことじゃない。とにかく一刻も早く原稿を仕上げて納品して、出版社から金を貰うだけのこと。

 おそらく、ここに書かれていることは本当のことでしょう。原稿につまると、どこかの文章をコピペしたり、愚痴で行数を稼いだり。中原昌也はそういう作家ですからね。納品、という単語のチョイスが素晴らしいですね。

 そんな作家なんて、みなさんは嫌いですか。みなさんは、もっと、わかりやすく、感動したり、感情移入したり、驚いたりできる小説が好きですか。

 大丈夫です。

 中原昌也の文章は、ちゃんと、面白い。

 ページを埋め尽くす空白だけが誠実な作家としての姿勢なのだ、と確信するに至った。それ以外に、いまさら何が信じられるというのだろうか?

  これは、『悲惨すぎる家なき子の死』に収録された最後の短編(言ってませんでしたけど、これは短編集です。)「まだ何も書いていない……」の文章です。この作品では、まず一行目から、書けない、という意味のことを書き、そして、我々が求めているのは、真っ白な、空白のページなのでは、という文章を、これでもかと繰り返し書き、ページを稼ぎます。

 一度、何か言葉が印刷されれば、もうそこに自由はない。一回、読んでしまえば、もう二度と開かれることはない。

 そんなページは寂しい。

 少なくとも、僕は、そのような捨てられた孤児のような虚しさには堪えられない。

  この短編の半分くらいは、このような文章が延々と続きます。中原昌也は、ただ、ひたすら、空白のページの必要性を、説きます。中原昌也にこういう文章を書かせると無敵です。そこには、ちゃんと、おかしみがあって、切実さがある。僕たちは、その切実さにやられて、考えてしまうのです。

 本当に、小説に、なんの意味もなく空白が、突然、あらわれてしまうのでは?

 わくわく、どきどき、でも、ちょっぴり、不安。

 これまでに、空白のページがそのまま印刷されて、流通に乗ったことは、もちろん、何度かありました。しかし、それは、きちんと、意味や、企みあってのこと。

 中原昌也に、それはありません。いや、一応、延々と必要性を説かれますが、僕たちは、中原昌也は小説を書きたくない作家であることを知っているので、それをきちんと受け止められません。

 そして、中原昌也が、小説を書きたくない作家であることを知っているがゆえに、僕たちは期待してしまう。

 革命的な、ただ、白いページを。

 はたして、中原昌也は、この小説はどうなってしまうのでしょう……。

 

 どうですか、少しは読みたくなりましたか。ならないですか。なってくれたら嬉しいです。ならないのなら悲しいです。

 でも、まあ、いいでしょう。

 一体、この小説がどうなってしまうのか、その答えは自分の目で確認してみてください。

 

二冊目 東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』

 一冊目の紹介で完全に疲れ果てました。ここからは駆け足ですよ! 

 さて、『キャラクターズ』。みなさんは東浩紀という人間を知っていますか。知らないですか。眉をひそめますか。見て見ぬふりをしますか。

 おそらく、九割の人間は東浩紀、と聞いて、眉をひそめます。一割は東浩紀のことを知りません。三割の人間は目を輝かせてなんか言ってきます。僕は特別な人間なので、『キャラクターズ』のことを思い出します。

 さて、そんな『キャラクターズ』とは、一体どういう小説なのでしょう?

キャラクターズ (河出文庫)

キャラクターズ (河出文庫)

 

  と、その前に、桜坂洋についての説明はいりませんよね? よくわかる現代魔法シリーズや、映画にもなった『All You Need Is Kill』の作者です。これは、そんな桜坂洋と、東浩紀の共作という形で書かれた、主人公東浩紀の小説、つまり、私小説です。

 私小説の説明はいりませんよね。みんなだいすきなあれです。もちろん、僕も好き。日本人は私小説がだいすき。

 この小説がすごいのは、その私小説を、共作でやったところ。これは作中でたしか書かれていたと思うんですが、私小説という形式はみんなだいすきな反面、どこか、なんか、あれがあるのでは、みたいな、そんなあれがあるんです。つまり、自分たちのスキャンダルとかを、私小説と評して、受け入れて持ち上げてるのが今の文壇、みたいな。言葉を濁してるんじゃなくてよく覚えてないだけだよ! 読み返す時間もないから進めるね。

 さて、そんな私小説を、共作でやったらどうなるか。作者=私(厳密にはイコールではないですけど)という、大前提が崩れる。保証されなくなる。

 すごい。批評っぽい!

 でも、本当はそういう批評性とかは、どうでもいいんです。僕が本当に好きなのは、ただ、普通に私小説を書けなかった、東浩紀の、桜坂洋の、そのクソみたいに膨れ上がった自意識。佐藤友哉桜庭一樹が「私」を書いて文学に受け入れられて、愕然として、「私」を、二人で書いた、そのゴミみたいな自意識。いちいち、ネタに、これじゃ筒井康隆のパロディでしかない、とか書いちゃう、その自意識。でもね、ゴミみたいな自意識で書かれてない小説なんて、それこそ本当のゴミなんですよ。

 

三冊目 木下古栗『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』

 本当はまだたくさん紹介した小説はあったんだけど、完全に疲れてしまいました。みんなも疲れたと思います。だから、これで最後。

 最後は木下古栗。

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

 

  先日のアメトーークでも紹介されていたので知っている人は多いんじゃないでしょうか。読んでいる人も多いんじゃないでしょうか。みんなもう読んでしまっているんじゃないでしょうか。紹介するまでもないかもしれませんね。

グローバライズ

グローバライズ

 

  この世界には、その人にしか書けない小説世界というのが確かにあって、木下古栗の小説も、また、木下古栗にしか書けない小説世界が展開されます。

 収録作は「IT業界 心の闇」「Tシャツ」「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」の三作。おっ、IT業界って単語がありますね! でもこの作品の内容はよく覚えてないので飛ばしましょう。

 「Tシャツ」。物語は外国人の青年と、中年夫婦の楽しげな歓談からはじまります。しかし、その数行後にはもうその外国人青年、ハワードは帰りの旅客機の搭乗口へ。それを見送る中年夫婦の手には、娘の遺影が……。

 そして、また時間は飛び、空港に降り立つのは、中年になったハワード。

 さて、どうですか。面白そうですか。なんとなく、どのような内容の小説なのか、つかめましたか。ハワードはどうなってしまうのか、過去になにがあったのか、ぼんやりでいいので、思い浮かびましたか。

 それは暖かいものですか? それとも、人の心の醜い部分を暴き出すような、冷たいものですか? それとも、なんだか、ぼんやりとして、でも、ちょっと、何か、考えさせられるような、そんな、感触のものですか? エンディングまで見えましたか? それはハッピーエンドですか? それとも、バッドエンド?

 さて、みなさんが思い浮かべたそれ、全部、不正解です。

 木下古栗はそんなものではありません。僕たちがいくら想像しても、追いつこうと考えても、木下古栗はまったく別の、全然知らない場所に小説を着地させてしまいます。それはこの「Tシャツ」もそうですし、次の表題作もそうです。

 「金を払うから~」の話もしましょう。「金を払うから~」は、有能な上司、米原がいなくなったから探しにいくぞ、とその米原が言ってくる場面から始まります。米原は、米原はきっとあそこにいるに違いない、といって、寿司屋だったり、なんだっけな、ショッピングモールだったかな、とかを回って、寿司を食べたり、ショッピングモールで、なんだっけな、なんか、遊んだりします。はたして、米原は見つかるのでしょうか。

 え? と思うかもしれませんけど、読んでもそのえ? は解消されません。それどころか、え? そっち? ってなります。(これはネタバレになるので言えません。みんなも読んで、え? そっち? ってツッコミましょう)。あと、他にも、語り手が見えてこなかったり(うろ覚え)、この小説も僕たちの全然知らない場所に着地していきます。

 

 

 

 

 意味がないはずなのに、嘘しか書かれてないはずなのに、僕たちを感動させ、心から離れない、そんな文章があります。

 「Tシャツ」には、ある定形の文章が、延々と続くシーン(?)があります。僕はこの文章を読んだ時、今までの人生はすべてこのときのためにあったのだと思い、涙しました。この文章を読むために、これまで本を読んできたのだとわかりました。引用はしません。ぜひ、みなさんも読んでみてください。

 

 時間の都合で紹介しきれなかった、紹介する予定だった小説を二作、タイトルだけ紹介しておきます。

 

イー・イー・イー

イー・イー・イー

 

 イー・イー・イーというのはイルカの鳴き声です。凶暴なイルカとか、虚無感に苛まれた熊が出てきます(帯の文章をコピペしました)。主人公は好きな女の子はいない、未来もない、アンドリュー(帯の文章をコピペしました)。「寂しいんだ どうしたらいい?」(帯の文章をコピペしました)。

 

 

ぼくらの文章教室

ぼくらの文章教室

 

  高橋源一郎がいろいろな文章を紹介します。文章を書くことについて考える教室です。文章はうまくならないけど、文章は書けるようになるかもしれません。みんなも読んでみてください。

 

 紹介した三作も、紹介できなかった二作も、誰かが読んでくれると僕は嬉しいし、きっと、読んでくれた誰かも、嬉しくなるはずです。

終わりに

 小説を読む暇があったら勉強してください。アルバイトをしてください。就活の準備をしてください。それが、この記事で、僕が言いたかった、本当のことです。