異郷の友人
今日の記事は今までのものとは少し気色の違うものになると思う。
なぜなら、これを書いているいとうくんは、いつもこのブログを書いているいとうくんではないからだ。
一般的にいとうくんは三人いると言われている。現実の世界を生きて、一生懸命就活をしているいとうくんと、Twitterやってるいとうくんと、このブログを書いているいとうくんだ。別に、どれがニセモノで、どれがホンモノとか、そういう話じゃなくて、どれも等しくホンモノのいとうくんであると思ってくれて構わない。人はすぐ僕たちを二元論で区別したがるけど、僕たちはそんな世界へのアンチテーゼとして生きているところはある。嘘だけど。二元論ってどういう意味なん?わかんねぇ。わからない言葉を雰囲気だけで使うことに慣れてしまった。
今、この記事を書いているのは現実を生きている、いとうくんだ。
僕たちの力関係を簡単に書いておこう。
基本的にはこの僕、現実を生きるいとうくんが一番強い。なぜなら、唯一、僕だけが、三人のいとうのなかで、肉体を持っているからだ。だから、僕たちの誰が何を語ろうと、それは僕の声としてみんなに届くと思うし、みんながいとうくんって言われて思い浮かべるのはこの僕の顔だと思う。インターネットが発展して言葉だけのコミュニケーションがすっかり馴染んでしまった昨今においても、やっぱり、言葉だけの存在は弱い。Twitterのいとうくんと、ブログのいとうくんに明確な力の差はない。ただ、年月の差でTwitterのいとうくんのほうが少しだけ立場的に上にいるような気はする。
僕たちは互いに互いを支え合っている。僕が普段感じた感覚や感触は球となって宙を飛ぶ。それはTwitterのいとうくんに丁寧にキャッチされ、言葉になる。Twitterのいとうくんが言葉に仕切れなかった球はブログのいとうくんが言葉にしてくれる。彼らが無造作に投げ込まれる球を丁寧に言葉にしてくれるおかげで、僕は厳しい現実を生きられている。僕はそんな僕たちに、僕の肉体と声を貸す。
そうやって、僕自身は何もしなくても、言葉は勝手に生まれるし、何かは伝わっていく。
馬鹿だった。
気がつくと、僕はすっかり言葉の出し方を忘れてしまっていた。僕は僕以外のいとうくんに頼りすぎた。
使わなければ、どんな力だって錆びる。
僕は、もっと、僕の力だけを使って、みんなに何かを伝える努力をするべきだった。
もう、遅いのか?
ペンを持って、簡単な文章を書こうとしても、腕がうまく動かせない。錆びたブランコのように、ギィギィ鳴きながら、よれよれの線だけがどこまでも広がっていく。
こうして、キーボードを打っている僕の指を動かしているのが、僕なのか、それとも、僕じゃない僕なのか、もう、それすら僕にはよくわからない。
僕がこれを書いているのか?
僕が言葉を編んでいるのか?
僕は一体何が言いたいんだ?
わからなかった。
もっと早く気がつくべきだった。
違和感を感じた夏。
僕が僕を連れてきた冬。
でも、もう、遅いのか。
やがて、滲んで幾重にも重なる世界を眺めているのが本当に僕なのか、それすらもわからなくなっていくのか……。