いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

走るのみ

先日、友人と銭湯に行った際、僕が銭湯ではいつまでもお風呂に浸かっていることを伝えたら「逆に風邪ひきそう」と言われた。たしかにその通りではあると思う。だけど、その、逆に、ってのなんなんだろう?僕は別に風邪予防のために銭湯に通ってるわけじゃない。銭湯に浸かる、というその体験が得たいだけなのだ。健康になりたいとか、綺麗な肌を手に入れたいとか、そういう欲望とは全くの無縁なのに。だから、例えば、銭湯に浸かっていると寿命が縮むと言われても、僕は銭湯に通い続けるだろう。(通わないかもしれない。)

そういう誤解はしばし起こる。あらゆる物事は、その外側にいる人から、誤解され続ける。文学やヒップホップがいつまで経っても誤解され続けているように。

みんな、一般化されたイメージでしか物事を語ろうとしないからだと、僕は思う。

本当は、本当のことは、本当(それは現実だけのことじゃない)の体験のなかにしかない。(現実に起こることだけが本当のことじゃない。)。

だけど、それは大変だし、人生のなかで自分で体験できる本当のことなんてのはごくわずかしかないから、みんな、簡単なイメージだけでなにかを語る。語ろうとする。そして、失敗する。

そんな世界の中でも、実感と経験則で物事を語ろうとする作家はいる。みなさんご存知、ハルキムラカミだ。村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』を読みました。ここに書かれていることは、全て、著者が走り/書き続けるなかで、自分で感じ、気付き、考え、得た、実感や経験則だ。

「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」 

という質問に、村上春樹さんは「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康ではなくてはならない。それが僕のテーゼである。」と語る。ステキだ。「それは職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。」

それは唯一の正解ではない。そのことを村上春樹は認めたうえで、それでも、それが自分にとっての本当のことだと語る。本当のことが語られている。小説にとって、おそらく必要となる、その、本当のことってやつが。(だから、例えば昔テレビで「芥川賞獲るまで又吉さんって誰のことかわかんなかったんですよ〜」と嬉しそうに話していた名前も知らないあの作家野郎は糞ということになる。)

スタート前にそれほど神経が高ぶっていたなんて、本人にもまったくわからなかった。でもちゃんと緊張していたのだ。人並みに。たとえいくつになっても、生き続けている限り、自分という人間についての新しい発見はあるものだ。裸で鏡の前にどれだけ長い時間じっと立っていたところで、人間の中身までは映らない。

これは、トライアスロンで泳ぐときにだけ必ず呼吸が乱れてしまう原因がスタート前の過呼吸だと理解った村上春樹さんが思ったことだ。とても微笑ましい。それに、なんだか、お茶目な感じがして、ちょっと感動する。

だけど、僕たちだってそうだ。僕たちだって、自分がどういう人間かなんて、ずっとわからないままなのだ。少なくとも、鏡の前にじっと立っている限りは、一生わからない。鏡に映るイメージは、いつだってある平面しか映さないのだから。

本当はその中になにがあるのか?

それを知るためには、実際に自分のなかにある深い井戸に潜りこんでみるしかない。そこは深い。そして、暗い。たぶん、果てもない。だけど、そこを走り/書き続ける限りは、きっと、そこには本当のことがあり続ける。

おわり。