いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

おしまいのひ

8時ごろ起床。昨夜はダノンプレミアムがちゃんと勝てるか心配でなかなか寝付けず。youtubeで違法アップロードされた競馬番組見てると、いてもたってもいられなくなり11時ごろに梅田ウィンズへ。メインレースまでに幾つか賭けるが、まったく勝てず。2月からとことん競馬で勝てなくなってしまった。一種のうつ病のようなものだと思う。強いとか弱いとかではなく、競馬がわからないのだ。少し前まではこんなことはなかったはずなのに。バットの振り方を忘れたバッターの気持ち。事態は非常に深刻である。本当に苦しい。冗談でもフリでもなく、競馬辞めたい。そんななか、弥生賞ではダノンプレミアムが見事一着。しかし、馬券は外れる。でも、本当に強い。中山のコースも、2000mという長さもこの馬は未経験なので、どうだろうか、と言われていたが、ダノンプレミアムにとって未経験であるという事は、ただ未経験であるという事でしかないのだ。新雪の野を駆け抜けているのだ。この馬目当てに皐月賞は現地に行こうと決意する。勝つにしても、負けるにしても、その瞬間をこの目で見ておきたい。ウィンズを出てヨドバシ、ジュンク堂など。疲れてマクドナルドでアップルパイを食べていると引越し業者から電話。ダンボールを幾つか落としてしまったとのことで、えー、と困惑。困惑したために新しいズボンを購入してしまう。その後、暗くなってきた梅田を練り歩く。そうして、全てはこれから終わるんじゃなくて、もう終わってしまったんだと気づく。駅前ビルで家系ラーメンを食べて帰ろうかと立ち寄ると、休憩中とのことで、気づくと帰ってスーパーで買ったうどんを温めて食べていた。明日は東京に引っ越す。

近況報告

先日、卒業研究会を無事にこなし僕の学生生活はほんとに終わっちゃいました。これ以上は続きません。単位の計算を間違えていなければ、僕は、これで卒業。最後の一ヶ月くらいは、自分の研究に何の意味があるのか、本当にまったくわからなくなってしまっていましたが、いざ発表が終わると、みんながよかったと言ってくれて、嬉しかったです。わーい。一年のうち、三割くらいは研究のことを考えてた甲斐がありました。三割と聞くとなんだか少ないな、と感じるかもしれませんが、一日24時間で考えると24÷3で8時間は研究のことを考えていたことになるので、これはすごい。まあ、でも、もうそんな日々とは、さようなら。

さて、4月まで、あと約2ヶ月。

社会人でもなく、かといって学生でもなく、しかし実際は学生であり、でも、社会人とも言える。なんともいえない、宙ぶらりんな、奇妙な感じ。中学生じゃなくなった日にも、高校生じゃなくなった日にも感じた、あれ。とりあえず、忙しくて全然本を読めてなかったので、読みたいです。まあ、ホントのところ、どんなに忙しくても、一日の7割くらい(24÷7=3時間半くらい)は文学のことを考えていたから、あんまり久しぶりって感じがしないけど。

寝る前の冒険

最近の趣味は、寝る前に、温かいお布団に包まれながら、すばらしいお話を読むことです、いとうくんです。昨日の晩は、松田青子さんという方の、『英子の森』というお話を読みました。全部で6つの、とても素敵なお話ばかりが収録されていて、その中でも、やはり、私は表題作の「英子の森」に感動しました。いろいろな価値観や、広告や、想いが溢れてしまって、なんだかよくわからなくなってしまった現代社会を、たくましく、力強く生きる母娘の姿勢に、いとうくんはとても勇気をもらいました。とくに、一番好きな箇所は、なんといっても、あの力強いラスト! 一度、壊してしまった場所に、もう一度、と決意して頑張る彼女たちの姿に、とても感動すると共に、すごく、新鮮な気持ちになりました。てっきり、森、というモチーフは、いつか抜け出すためのものだとばかり思っていたのですが……やっぱり、松田青子さんは少し変わったお方です。他の、5つのお話も、どれも短いですが、その分、変な感じがとても凝縮されていて、変なお話が大好きないとうくんは、一つ読み終わるたびに、くらくらとしてしまって、大変でした。お布団のなかで、とても刺激的な冒険を、ありがとう、松田青子さん。他の本も文庫になったら買いますね。

おわり。

ロマンティックあげない

ロマンティックあげない

 

 

東京で働きます。

タイトルの通りです。東京に行きます。さよなら僕の4年間と僕の3年間。

東京。

なんてことない平凡な地方都市で『凹村戦争』や『灰色のダイエットコカコーラ』や『世界の終わりの終わり』を読んで育った平凡な高校生の僕にとって、東京は一つのゴールだった。人生のすべてが黒く光り輝く夢の国だった。フィクションの上にフィクションが塗りたくられた魔法の城だった。懐かしいなぁ。

東京行かせろ。

呪詛のように延々とそう繰り返していたあの頃の僕はもういない。「配属地 東京」の文字を見たとき、僕は普通にやったー、と思った。それだけだったよ。どこに行ったってそこは黒く光り輝く夢の国でも魔法の城でもないみたいだ。終わりはこない。社会が続く。

僕はまだ走り続けなきゃいけないらしい。やれやれ。

つづく。

可愛い

やあ、こんにちわ。

いとうくんだよ。

ポップであり続けることを信条に生きる僕の最近のマイブームは早起きしてコンビニで朝ごはんを買ってそれを公園でゲートボールするご老人を眺めながらむしゃむしゃ食べることだよ。最近は綿矢りさの小説を読んでるよ。昨日は『ウォーク・イン・クローゼット』を読んだよ。その前は『勝手にふるえてろ』を読んだよ。その、さらに、ずーーーっと昔に、『インストール』と『蹴りたい背中』を読んでたよ。僕が密かにつけている読書ノートによれば(僕が高校生の頃に読書メーターとか使うのはダサいなと思って一人こっそりつけ始めたやつだよ。一人でひっそりとやるのがかっこいいと思ってたんだなぁ。去年あたりにやっと二冊目に入ったと思ったら、目に見えてページが埋まらなくなって少し悲しいよね)、僕が『インストール』と『蹴りたい背中』を読んだのは4年前で、流石にそんな昔になっちゃうと内容なんてすっかり忘れちゃったね。『インストール』のほうが面白かった気がするけど、今思うと『蹴りたい背中』のほうが面白い気もする。17歳で綿矢りさが書いた小説を、僕も同じ歳の頃に読んだことになるけど、当時の僕がそのことについてどう感じたのかも覚えてない。しかし、なんていうか、すっかり打ちのめされてしまったな、今回ばかりは。『ウォーク・イン・クローゼット』も『勝手にふるえてろ』もすごかった。「綿矢りさ」で検索をかけようとすると、何番目かに「綿矢りさ かわいい」がサジェストされるけど、やっぱり、みんな、わかってるなぁ、と思う。綿矢りさは可愛い。容姿が、というより、なんていうか、可愛さってのはきっと、一挙一動に出てくるもので、そういう、一挙一動に出てくる可愛さが綿矢りさの小説にはあるんだなぁ。よく、可愛さは武器だなんて言うけど、本当にそのとおりで、なぜなら何かを可愛いと思うのは全人類が持ち合わせている心の機能の一つで、それが武器にならないはずなんてないんだな。可愛いってのはポップなんだ。だから、綿矢りさの小説は売れる。今はどうか知らないけど、少なくとも売れてた。だって、可愛いものが売れなかったことなんて一度だってないんだ。長い歴史のなかで、たったの一度だって。たぶんだけど。

まあ、でも、実際のところ、可愛くない作家なんていない。ていうか、作家にかぎらず、多くの人の目に触れるところにいる人たちはみんな可愛くて、ポップだ。男だとか、女だとか、子供だとか、大人だとか、関係なく、いつだって可愛くあり続ける人だけが、輝き続けるんだな、きっと。

憧れるなぁ。

というようなことを考えている。

おわり。

ウォーク・イン・クローゼット (講談社文庫)

ウォーク・イン・クローゼット (講談社文庫)

 

 

みんな疲れちゃった

 久しぶりに本を読みたくなってずっと本棚にあった小島信夫の『抱擁家族』を読みました。自分たちが外国から受け入れたものは矛盾してる、そのしわ寄せは家族に来る、という文章にあるように、妻とアメリカ人の浮気を発端として崩壊していく家族を書いた傑作、戦後の日本とアメリカの関係をモチーフにした傑作と紹介してしまってもいいのですが、それだけだとすれば、世界地図を見てもどこまでがアメリカの領土なのかわからない、将来は本気でアメリカの大統領になりたいと思っている僕の心にここまで響くわけはないので、つまり、この小説は時代背景を超えた、本物の小説にのみ許された輝きを持った小説だということです。久しぶりに出会えた。本物は旅をする。時を軽く超える。

 この本を読みながら感じたのは、文章から漂う、不気味さ。何かがずれていて、それでいて、どこか疲れている文章。とくに、妻がゆっくり死んでいく後半からの怒濤の疲労感。ただ、不気味なのは、普通に疲れて書かれた文章など、まったく読む気にならないし、肩が凝ってしまって表紙だってもう二度と見たくなくなるようなものなのに、小島信夫にはそれが無いんですよね。まったく、これっぽっちも。僕はこの本を何度だって読みたいと思う。なぜか?

 僕の推理では、おそらく小島信夫は宇宙人で、宇宙人の言葉にどれだけ何かを感じたって、本当にそれを理解することが出来ないということがあるのだと思う。たぶん、小島信夫は金星あたりからやって来てる。

 だから、僕がこの本を読んで感じた疲労感は、疲労感の”ような”もので、僕がこの本を読んで感じた喪失感は、喪失感の”ような”ものなんじゃないかって思う。

ほんとうにいったのだろうか。いったとすれば、いつだったのだろう。

ノリ子は泣き出した。あんな醜い顔をして泣いてはいけない。

(そんな無茶なことはいってくれては困る、そんな無茶なことは)

俊介は客をへだてたところから、躍起になった。泣きやんだノリ子は俊介のそばにやってきた。

「もういいのよ。もういいのよ」

とノリ子はいった。

 これは妻が死んで、残された娘に女中が可哀想、亡くなった奥さんもそう言って心配していた、と言って聞かせる場面です。最近は、紙の本を読んで気になったところは写真撮るようにしていて、カメラロールのなかに残っていた写真の一つから抜粋しました。もう、当時の僕が何を気になってこのページを写真に収めたのか、正確な記憶はありませんが、おそらく、ここに何か奇妙なものを感じ取って、衝動的にパシャリとやったんでしょう。たしかに、読めば読むほど、なんだかわからない気分になってきます。ここで起こっているのは、ノリ子が泣いて、父親である俊介が泣かないでくれと願い、泣きやんだノリ子が俊介のそばにやってきて、もういいと言う、それだけの場面なんですが、なんでしょう、どことなく、居心地が悪い。そもそも、これまで一度だって()で括られた文章なんて出てきたことなかったし、ノリ子、二行後には泣きやんでるし。なんだろう、わからないや。

 と、あんまりわからないみたいに書くと、たぶん読んでみて普通にわかるじゃん、となってしまうので、やっぱりどことなく居心地が悪い、くらいにとどめておきます。それに、たしかにそれは疲労感の”ような”もので、喪失感の”ような”ものであるかもしれないけど、それはそれでれっきとした疲労感だし、喪失感なので、僕たち、生まれた惑星は違っても、きっとそれなりにわかりあえるよ。それなりに、だけど。

 最後に祈りの言葉を引用しておきます。

「先のことは何も考えることはないよ。もし祈るとすれば、 お母さんの魂に祈るのだよ」

  この小説は長男の家出により、さらなる家族の崩壊の予兆を見せて終わります。でも、僕たちは先のことは何も考えることはないよ。もし祈るすれば、死んだ者の魂に祈るのだよ。と思ったのですが、『うるわしき日々』がこれの続編らしいので、祈るのはちょっと先へ延ばしておこうと思います。

おわり。 

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

 

 

芥川賞になれなかった小説を読みました

少し前に芥川賞候補になった『ビニール傘』を読みました。社会学者の岸なんとかさんの小説です。お恥ずかしながらそちらの分野には疎いもので、初めてお聞きするお名前でしたが、すごいですね、お上手です、小説が。

街があって、その街に住む人々がいれば、小説は出来上がるんだということがよくわかります。でも、なんだかちょっと暗くて好きになれなかったので50点。

僕はこの本で感動した文章を引用したり、読み返したりしながら感想を書きたいのですが、あいにく読み終わった本をどこかに置いてきてしまったので、記憶だけを頼りに話していきます。

まず、表題作の「ビニール傘」はかなり面白く、何が面白いかというと、顔を与えられた語り手がいないところが面白かったです。

小説の冒頭で、髪が地味な水商売の女を乗せ北新地へ向かうタクシードライバーが俺として語り、しばらくして一行の空白の後、あー、髪が地味な女と遊びてー、と思う俺が出てきて、あれ、と思っているうちに、タクシードライバーってどうなんだろ、でも俺運転できないからなー、という語りがあって、あ、この人はさっきまでの俺とは違う俺なんだな、と読者にわからせる手際もなかなか上手いです。

そこで、読者はこの小説にはまず、大阪という街があって、そこに住む俺たちの小説なんだな、というふうに想像することができます。で、実際そういうふうに、コンビニ店員だったり、日雇い労働者だったりする俺が語り出して、でも、その語り口の雰囲気や、俺の目に飛び込んでくるカップラーメンのゴミや港の風景はみんな同じなので、なんだか、ぼんやりとしてきて、そこで改めてこの小説はすごいなぁ、となるわけです。そしたら、いつの間にか語り手は私になっていて、しばらくすると布団のなかに潜り込んでくる犬のイメージになって小説は終わりました。

この小説で語ることとなった私と俺はどこかで関係しているか、もしくは関係していなかったはずで、しかし、どの俺と関係していたのか、していなかったのかは語られることなく、小説は終わっていき、街に無数に転がる可能性と、その可能性の空虚さっぽいことを胸に残していくので感動します。すごい。文章もとても上手いのでいいなぁ、と思いました。でも今は黒い髪の水商売の女の話を聞いてやりたいって気分じゃなかったんだよなー。出会う時期を間違えました。

次に、「背中の月」ですが、こちらは、いわゆる虚と実が入り交じるよくあるあれで、大阪の侘しい情景やそこに暮らす人の感じを書くのが上手いので、そういうのが組み合わさってなかなか没入感のある作品になっていました。寂しいなぁ、ってなりました。すごい。でもつまんかったですね。

全体としてはかなり面白かったのになー、 ちゃんと好きになってあげられなくて悲しい。唯一、ちゃんと好きになってあげられたところは、ページに対して文字が少なく、そのうえ大阪の風景写真なんかを挿入してなんとか単行本の体裁にしていたところで、こういう、作者や編集者のごまかしみたいなのって、小説に書かれていることよりもずっと本当のことのように感じられて、僕は好き。でも悲しいことに、もうそのジャンルには中原昌也という先駆者がいるんだ……。彼はページに対して文字を少なくして、写真を挿入して単行本の体裁にしただけじゃなく、後ろに自分の音楽CDをくっつけて2000円くらいの値段にしてたよ……。かなわないね。

なので、本を読んだ僕は、本を閉じて、50点かなぁ、と呟きました。30点だったかもしれない。呟いてすらなかったかもしれない。

どちらでも良い。すべては作り話だ。遠くて薄いそのときのほんとうが、ぼくによって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった。山下澄人大好き。

おわり。

しんせかい

しんせかい