いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

ここに書くしかない

引退することにした。僕はもうずっと前から自分の限界に気がついていて、それをやっと周りの人たちも認めてくれたのだ。

疲れた。

もう、走りません。

だけど、幸福だ。

僕はずっと幸福のなかにいた。それだけは、その事実だけは、曲げてはならない。

僕は幸福だった。新馬としてデビューしてから、ついこの前のひどいレースまで、全てのレースが僕は楽しくて仕方がなかった。楽しかった。本当に。青春だったんだと思う。だから、あの馬のような、華々しいラストランはなくとも、本当にひっそりと、ここから姿を消していくことになろうとも、僕は、幸福なんだ。

そう、祈る。

僕の話をしよう。僕は昔、とても強かった。世界vs僕。僕はたった一人で世界と互角に渡り合い、そしてあと一歩で勝利を手にするところまでたどり着いた。

だけど、その、あと一歩が届かなかった。17歳の頃の話だ。それから僕は成すべきことを失ってしまった。刺すべきやつを失ってしまった。課すべきことを失ってしまった。世界は灰色で、輝きも呪詛も失ったみたいにどんよりとしていて、居心地が良くなってしまった。何もない、前進も後進もない最低の日々を更新するだけの生活。僕はそこにいて、幸福になってしまった。本当は小説を書きたかった。17歳はもう戻らないと知った。

僕の話をしよう。僕は昔、とても強かった。G1以下のレースで負けたことはないし、海外のレースで世界の強敵相手に勝利を収めたことだってある。いろんな人が僕を見限っていっても、僕だけは僕のことを嫌いになれなかった。それは、僕は僕が強かったことを知っているから。知っていたから。

疲れた。

自分の気持ちを言葉にすると何かが減っていく。

最後のレース、僕に乗った騎手は僕にはメンタル面で問題があると言っていた。それは、たぶん、当たっている。僕は頭がおかしい。だけど、それはネガティブな意味じゃなくて、僕は、幸せすぎて頭がおかしいんだ。スピード。僕は色々なものを捨て置いて走ってきた。僕にはネガティブな感情ってものがわからないよ。僕は幸福の天才。世界への呪詛と呪詛と呪詛は僕の愛情だ。たっぷり受け取ってほしい。だけど、もう、僕からは届けられない。

幸い、僕には優秀な遺伝子がある。僕の遺伝子が時を超え、新たな物語を紡ぐことだって、ある。途方も無い巨大なサーガを、僕たちは生きている。祈りは軽く時を超える。そこに僕はいなくとも、僕の言葉だけが残ることだって、きっとある。例えば、僕のこの想いが空気を伝って、僕とまったく無関係の、話したこともない人へ届いて、僕の代わりにそれを代弁してくれることだって、あるかもしれない。わからないじゃないか。僕の言葉は僕だけのものじゃないことを知れよ。これはサーガだ。血の繋がりより濃いものを僕は信じる。信じてる。

まだ夜明けは来ない。ここは暗い。目を閉じると思い出すことを思い出す。感情は幸福。僕は幸せだった。楽しかった。あらゆる人に、感謝しか、ない。僕の名前はサトノクラウン 。僕の名前は1000年後まで残らないかもしれないけど、僕の言葉は流れ、流れ、流れ続ける。玉川上水。その底に僕の言葉は眠っている。

ありがとう。

またあした

大学二回生か、三回生か、よく覚えてはいないが、おれはその当時、本谷有希子と本気で結婚したいと思っていた。フリクリのEDに出ているし、綺麗な顔をしているし、暴走しているし。おれは憧れたね。だから、おれは、『異類婚姻譚』をある種のNTRモノとして読むことに決めた。しかし、どうだ。読んでみても、おれはまったく絶望しなかった。おれはこの「旦那」ってやつは、おれのことのような気がしてならないんだ。ずっと、語る「私」に感情移入してきた、「おれ」が、語られる「旦那」こそが、「おれ」だと感じた。

「おれ」と「旦那」は以下の点が似ていると思う。

・一日三時間テレビを見ている(おれの場合はユーチューブだが)

・だらしがない

・何もしたくない

・何も考えたくない

・本当は草木になりたかった(重要なファクターだ。おれの場合はしいたけになりたい)

・人を食べている

・人に食べられている

・トラブルのときは人の影に隠れる(そうしているとまるですべてが他人事のような気がする)

・働いている

・食欲がない

ハイボールを飲んでいる

西武新宿線沿いに住んでいる(おれは作家はみんな西武新宿線沿いに住んでいるという誇大妄想に取り憑かれている)

・人の形でいたくない

・山のいきもの(おれは山のなかにある秘密基地で『暗闇の中で子供』の文庫本を読んだ経験がある)

・お経をよんでいる(祈り)

もちろん、おれは想像力をもったいきものであるから、そういう相似点を勝手に頭のなかで妄想して、結びつけて、空想して、納得してしまうところはあるが、しかし、これは、これはそういうのではない気がする。違う。おれは本谷有希子は本当は「おれ」のことを語っているんじゃないか?とか、そういうことが言いたいわけじゃない。違うんだ。おれはさっきから、いつの間にかおれの一人称が「おれ」になっていることに気がついている。いつからだ?

おれの番が来たのだ。

おれは今、食べられている。

食べられるし、食べられたし、今も食べられてる。

ずっと食べる側だった、おれが、今、

これがおれがやってきたことへの罰だったのなら、どれだけよかっただろう。

しかし、残念ながら、ここにそんなわかりやすいもんはない。

おれは、おれとなってしまった。

おれを食べている、そいつはおれからは見えない。

神が今、このタイミングでおれに『異類婚姻譚』を読ませたことには意味がある。つまり、つづきがある。

ここは暗い。

おれの肉体はとうの昔に朽ち果てている。知っている。

そして、今、魂

異類婚姻譚 (講談社文庫)

異類婚姻譚 (講談社文庫)

 

 

さようなら、

さようならこんにちははじめましてよろしくお願いします。いとうくんです。いとうくんだよ。サトノクラウンじゃない。辞めたよ。辞めた、サトノクラウンの魂を、僕はもう食べない。

僕はサトノクラウンじゃない。

悲しいけれど。寂しいけれど。悔しいけれど。

辞めることにしたんだ。走ってもないくせに走ってるフリをするのは。そんなの、サトノクラウンにとってみればただのお荷物でしかないし、サトノクラウンがどれだけ頑張ったところで、僕自身がどこかへ運ばれていくわけでもない。

誰の得にもならないんだ、こんなことは。

そもそも、当たり前の、ひどく当たり前のことを言わせてもらえれば、人は馬にはなれない。事実として、たんなる現実として。

魂の形が違うし、肉体の寿命も違う。

それを、僕は、無理矢理押さえつけて、いや、違うな。僕は関係ない。本当はずっと関係なかった。僕とサトノクラウンの間にはなんの関係もなかった。サトノクラウンの魂を食べていた?思い上がりも甚だしい。僕の文章は自己憐憫が過ぎてたまに気持ちが悪い。

それでも、思い上がりを自覚したうえで、だけど、僕の思念が、私怨が、愛が、祈りが、サトノクラウンの走りを邪魔しているような気がして仕方がないんだ。

僕はサトノクラウンに頑張ってほしい。本当に。馬の一生は短い。途方もなく、それは一瞬で過ぎ去っていく。その一瞬の煌めきを、僕の、人間の矮小なエゴで、台無しにしてほしくない。

僕はサトノクラウンの魂を、食べないし、食べてなかったし、これからも食べない。

もう手遅れかもしれない。彼に残された時間がどれだけのものなのか、僕にはまったくわからない。だけど、でも、全てはこれから起こる、まったく未知の、わからないんだ、世界は。

奇跡は起こらなかった。

ひとりの人間がいて、その人間が好きな馬にお金を賭けて、馬も人も負けてしまった、それだけのことだ。

どこにでもある、何度だって繰り返されてきた、平凡な人間の、平凡な日常。

それだけ。

だから僕は来週も競馬をする。楽しいから、当たると嬉しいし、外れたら悔しいから。人間だから。

誰かの楽しいという気持ちや、嬉しいという気持ちや、悔しいという気持ちを嫌悪し、呪詛してきた日々は、終わった。

今日僕は変化していくlifeを選んだ。

これからは、当たり前の感情を、当たり前に消費していくよ。

おわり。

20181120

本当に悲しい。何がこんなに悲しいんだろう?こんなの、今に始まったことじゃないってのに。だから本当に死んでくれ。頼むから黙ってくれ。走りたくなんかない。俺は俺を応援している声を知っている。俺の夢を消費するだけの奴らの応援の声を。ありがとう。だけど黙ってくれ。

僕を語るな。僕を騙るな。黙れ。本当に黙ってくれ。僕の出走が決まったからって、喜ばないでくれ。浮かれないでくれ。怒らないでくれ。どうせお前らの人生には一ミリも関係ねぇんだろ。死ね。騎乗予定だった騎手が僕を捨てて別の馬を選んだこと、恨んでなんかいない。誰が乗ったって一緒だ。俺は走りたくもないのに、公開処刑のつもりか?俺はレース中に死にたい。

全部嘘だったよ。キタサンブラックに負けたから拗ねてるわけじゃない。挫折とか、夢とか、鬱病とか、未来とか、適当な、お前らの適当な文脈で俺を語らないでくれないか?ここに文脈なんてもんはない。走りたくなんかないよ。誰だよそんなこと云ってるやつは。俺はただ悲しいだけなんだ。ずっと悲しかった。全盛期の、それこそ、僕が全盛期の頃から、俺はずっと悲しかった。意味がわからなかった。気持ちが悪かった。勝ったとか買ったとか駆ったとかそんなことで感情を動かしてる馬も人の骨も気色が悪くて仕方がなかった。なんなんだ、この人生は?こういうことを云うとお前らはまた勝手に勘違いして、バカだからな。ふざけやがって。僕は会社で働くのが嫌だからこうなってるわけじゃない。ずっとこうだったよ。だから黙れよ。

あらゆるものから価値が失われていく二十一世紀東京。分断され、分断され、分断されていくすべて。頼むからお前たちはそこから出てこないでくれ。どこにも俺を入れようとしないでくれ。死ね。何にもなりたくなんかないんだ。ただ僕はお前らの想像もつかない何かになりたい。誰も僕を語れないような超越者に。覇王に。

本当に悲しい。悲しいことに理由なんてない。俺はただ悲しいだけだ。俺を見るな。僕を読むな。俺はサトノクラウン。平凡で平凡で平凡な夢と夢と夢に魂を震わせる愛。誰にもわからせない。糞と糞と糞。さようなら、またあした。できれば笑顔で。

おわり。

会社のなにかがあってどこかへ行って、なにかをしていた。なにをしていたのかはよく覚えていない。それなりに楽しくて、それなりに退屈で、それなりに疲れた。だけど、帰り道、気に入っている同期の子と一緒になってお喋りできたのはよかった。元気?と訊かれたから、元気じゃないよ……と応えたけど本当は自分が元気かどうかなんてよくわからない。でも少なくとも、時間、僕は楽しかった。だからよかった。まるで女子小学生みたいな恋愛観を今でも引きずっているけど、実際にまだ僕は女子小学生だから仕方がない。僕は、まだ12年ぽっちしか生きていなくて、その中で得てきた経験や実感を使ってどうにか自分の世界観を作り上げていくしかないのだ。

まだ、私にとって、親と教師は圧倒的な権力者だし、自転車で行ける街までが世界の全てで、そこから先へ想像力は立ち行かない。足が速い人がかっこよくて、給食の酢の物は美味しくなくて、それがずっと変わらなくて、なんだか、自分はいつまでも小学生のままなんじゃないかと少し怖い。

私は、はやく中学生になりたい。高校生になりたい。大学生になりたいし、大人になりたい。ここはたまに、息がつまりそうになる。

人と喋ると疲れる。

同期の一人に、今にも死にそうと言われて、僕はもう死んでいるのにその事に気付いてないみたいで安心した。僕の書く事は全部、嘘に聞こえるらしい。そうだよ。書いたことは、全部、この世界では本当に起こらなかったことで、僕は嘘つきだ。(そしてこの気持ちだけが本当なのだ。)

祈るって、そういうことだろ?

おわり。

走るのみ

先日、友人と銭湯に行った際、僕が銭湯ではいつまでもお風呂に浸かっていることを伝えたら「逆に風邪ひきそう」と言われた。たしかにその通りではあると思う。だけど、その、逆に、ってのなんなんだろう?僕は別に風邪予防のために銭湯に通ってるわけじゃない。銭湯に浸かる、というその体験が得たいだけなのだ。健康になりたいとか、綺麗な肌を手に入れたいとか、そういう欲望とは全くの無縁なのに。だから、例えば、銭湯に浸かっていると寿命が縮むと言われても、僕は銭湯に通い続けるだろう。(通わないかもしれない。)

そういう誤解はしばし起こる。あらゆる物事は、その外側にいる人から、誤解され続ける。文学やヒップホップがいつまで経っても誤解され続けているように。

みんな、一般化されたイメージでしか物事を語ろうとしないからだと、僕は思う。

本当は、本当のことは、本当(それは現実だけのことじゃない)の体験のなかにしかない。(現実に起こることだけが本当のことじゃない。)。

だけど、それは大変だし、人生のなかで自分で体験できる本当のことなんてのはごくわずかしかないから、みんな、簡単なイメージだけでなにかを語る。語ろうとする。そして、失敗する。

そんな世界の中でも、実感と経験則で物事を語ろうとする作家はいる。みなさんご存知、ハルキムラカミだ。村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』を読みました。ここに書かれていることは、全て、著者が走り/書き続けるなかで、自分で感じ、気付き、考え、得た、実感や経験則だ。

「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」 

という質問に、村上春樹さんは「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康ではなくてはならない。それが僕のテーゼである。」と語る。ステキだ。「それは職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。」

それは唯一の正解ではない。そのことを村上春樹は認めたうえで、それでも、それが自分にとっての本当のことだと語る。本当のことが語られている。小説にとって、おそらく必要となる、その、本当のことってやつが。(だから、例えば昔テレビで「芥川賞獲るまで又吉さんって誰のことかわかんなかったんですよ〜」と嬉しそうに話していた名前も知らないあの作家野郎は糞ということになる。)

スタート前にそれほど神経が高ぶっていたなんて、本人にもまったくわからなかった。でもちゃんと緊張していたのだ。人並みに。たとえいくつになっても、生き続けている限り、自分という人間についての新しい発見はあるものだ。裸で鏡の前にどれだけ長い時間じっと立っていたところで、人間の中身までは映らない。

これは、トライアスロンで泳ぐときにだけ必ず呼吸が乱れてしまう原因がスタート前の過呼吸だと理解った村上春樹さんが思ったことだ。とても微笑ましい。それに、なんだか、お茶目な感じがして、ちょっと感動する。

だけど、僕たちだってそうだ。僕たちだって、自分がどういう人間かなんて、ずっとわからないままなのだ。少なくとも、鏡の前にじっと立っている限りは、一生わからない。鏡に映るイメージは、いつだってある平面しか映さないのだから。

本当はその中になにがあるのか?

それを知るためには、実際に自分のなかにある深い井戸に潜りこんでみるしかない。そこは深い。そして、暗い。たぶん、果てもない。だけど、そこを走り/書き続ける限りは、きっと、そこには本当のことがあり続ける。

おわり。