いとぶろ

いとうくんの楽しい毎日

不可能を可能に

タイムラインで知ってる人がわからない文脈でエアリプを飛ばしたりしてるのを見ると、みんな自分だけの視点でモノを見て行動しているんだなぁ、と感慨深いものがあって感動で涙が止まらなくなる。感慨深いことに、人は自分の一生しか生きることができない。どれだけ短くても、惨めでも、幸せでも、無感動でも、超展開でも、たった一回。だから僕たちは僕たちの代わりに短くて惨めで幸せで無感動で超展開な人生を歩む誰かの物語を読む。誰かが見て得て体験した人生を生きる。

というわけで、『ささみさん@がんばらない』を3巻まで浮遊感覚的読書法で読みました。浮遊感覚的読書法とは、僕が編み出した読書法で、浅い睡眠と覚醒を繰り返しつつ、読書をするというものです。これにより、睡眠と覚醒、彼岸と此岸、虚構と現実、無意識と意識、読者と作者、感覚と思考がごっちゃになって何がなんやらてんやわんやで今自分がどこまで読んだのか、何を読んだのか、誰が語ったのか、何が起こったのか、しまいには文字を読んでいるのか読んでいないのか、それすら区別つかなくなります。浮遊感覚的です。しかし、現実だって、今自分がどこまで来たのか、何をしたのか、誰が語っているのか、何が起こっているのか、そもそも自分は起きてるのか、寝てるのかなんてはっきりとわかんないわけですし、つまり、浮遊感覚的読書法とは現実を虚構に近づけるんではなくて、虚構を現実に近づける読書法なわけなんですよ。『ささみさん@がんばらない』はささみさんが引きこもっている話が面白いですね。2巻の最初の話とか、あんまりそういうミステリっぽい仕掛けみたいなのを読みたいわけじゃないんだよなってなりますね。でも2巻はぐったりしているささみさんを語るささみさんが書かれているので感動しますね。後から聞いたって誰に聞いたんだろう、って思ってたら文字通りの神の視点だったのとかも感動しました。アクロバティックだなぁ。1巻のあとがきを読む感じ、パラフィクションみたいなことがしたいのかなって感じはするけど、ここでの読者ってささみさんなのでパラフィクションみたいなことがしたいわけじゃないのが悲しいですね。でもパラフィクションってなんなんですかね。佐々木敦の本を読んでもよくわかんなかった……。たぶん、《読む/読んだ/読んでいる》ことによって立ち現れる『ナニカ』、《読まれる/読まれた/読まれている》ことに自覚的な小説って感じだと思うけど、どうですかね!?難しい話がまったくわかりません。もっと肉体で書かれた文章が読みたい。次は家にあるぶんだけ『人類は衰退しました』を読むことにします。